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傲慢と乾杯


飲み屋での一幕。


よく見る常連さんやマスターとの乾杯。
騒がしく、いろとりどりのシフク。
弾ける声とグラスのぶつかる音。

 
乾杯の音で、何かが消えていく。

自分ひとりがスーツを着て乾杯をすることに辟易する。
乾杯をした相手にではない。
自分に、だ。
 

多くのサラリーマンにとって、スーツは社会人の役衣装だ。
誰の目から見ても「仕事をしている」と主張するための理論武装だ。
オフィスに入るためのドレスコードだ。


これは自ら好んで進めている自分ルールではない。雇って頂いている会社の、どことなく漂うふわっとしたルールだ。
規約に載っているわけでもないし、誰かに言われたわけでもない。
営業するため、会議するため、先方を不快にさせないため。
そのルールに則ることで、なにかしらの安心感を得ようとする。今日も電車に乗って、スーツを着たサラリーマンを見るとほっとする。
電車の窓に流れる景色を眺めながら、今日も働いたという事実を再認識させる。
この人たちも一緒の生物なのだ。

ところが、行きつけの飲み屋に入ると、自分が異質な存在であることに気付く。
スーツを着ているのは自分だけではないか。
こんな暑い日に、汗ジミ作って、ボタンをひとつだけ開けて。
恥ずかしいことに、これを勲章だと思ってしまっている自分がいる。
同時に、スーツを着ていない周りの人を下に見ている自分もいる。
スーツを着ている自分が偉いという、理屈もへったくれもない傲慢な理由で。

テレワークが主流となったこの時代に、多様な働き方が許されるこの時代に、クソ暑いスーツを身に纏うことでマウントをとっているのだ。
「スーツを着ている=仕事をしている」「スーツを着ている=勤労の象徴」なんて図式はとっくに成り立っていないのに。
私服を着ている人が仕事をしてないわけないのに。服装と仕事に相関関係なんてないのに。
心の奥底で、こんな気持ちを抱いてしまっている。どこかで、卑下してしまっている。

そんな状況で、乾杯が鳴る。
目の前の乾杯で、何かが弾ける。

たくさんの笑顔。
ビール、ハイボール、レモンサワー…
それぞれの乾杯を、くる人くる人全員と交わしていく。
ウーロンハイ、紅茶割り、ジャスミンハイ…
それぞれの仕事を、くる人くる人の人生を何も知らない。
ウイスキーロック、ジントニック、ラムコーク…
年齢も、住まいも、出身地も、何なら名前すら知らない。
日本酒、焼酎、ワイン…
たくさんの笑い声、手を叩く音、グラスが響く音、乾杯の合図。

泣きそうになる。


こんな感情を持ってしまっている愚かな自分に。
楽しい酒の席で、幅広い世代の人が集う酒の席で、あったかすぎる酒の席で、浅はかな考えが湧いてしまう自分に。
みっともない。こんな、こんな、人間であることを情けないと思う。
酒のペースは進む。飲む量で誤魔化そうとする無策な自分にも呆れるが、酒のペースを進めるしかないのだ。
汚い涙に変わる前に、アルコールを含んだ水分を口に入れるしかないのだ。
いったん、思考回路を止めないと。

そうでないと、傲慢が体内を蝕む。
そうなる前に、乾杯を。

乾杯の音が、少しだけ罪悪感を消してくれる。だから乾杯するのかもしれない。飲むのかもしれない。おかわりするのかもしれない。はしごするのかもしれない。
自分の傲慢がひとつ泡のように浮いて、乾杯の音で弾けて消えて、また浮かび上がって。


会社員だからといって、そうでないからといって、会社に属しているからといって、そうでないからといって、デッカイオフィスで働いているからといって、そうでないからといって。
この飲みの席では何一つ関係ないのだ。
年齢とか、社会人歴とか、職業とか、全ては乾杯で掻き消される。
僕の恥ずかしく、奥底にこびりついた、一生消えないような傲慢は、乾杯で弾け飛ぶ。


グラスの底の滴が垂れてスーツのズボンにはシミがつく。
隣に座った常連さんは、見るからに年上なのに高さを低くして乾杯をする。
僕が選ばなかった歪な瓶のウイスキーは佇むように誰かを待つ。

シミ。気遣い。孤独。傍観者としての自分。
俯瞰して周りを見渡し、静かに笑う。
悪酔を通り越した、向こう側の感情。

笑顔に上塗りした傲慢に、また乾杯しよう。




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