運命のあみだくじを辿って
生きていると、あらゆる選択を求められる。
二択、三択、四択、五択…
定食屋で五つのランチ定食から何を選ぶか、いつも悩む。
散々悩んだ挙句、一つに決めて食べ終わった後、「これにして良かった」と満足するときがあれば、「違うのにすれば良かった」と後悔するときもある。
そんなとき、違う定食を選んだ未来を想像することがある。
「もし、この道を歩んでなければ」と。
Aの唐揚げ定食を選んでいたら、夕食にもう一度唐揚げが出て、げんなりするかもしれない。
Bのカキフライ定食を選んでいたら、牡蠣に当たって、一日中トイレに篭っていたかもしれない。
Cのほっけの焼魚定食を選んでいたら、骨を取るのに一時間くらいかかって、会議に遅刻していたかもしれない。
Dのマグロの刺身定食を頼んでいたら、マグロが切らしていて、Cのほっけの焼魚定食を勧められていたかもしれない。
結果、Eのしょうが焼き定食で良かったと安心する。
そう、僕が選んだ選択肢以外は、全部不正解なのだ。
人生は常に幾つかの道が用意されていて、知らずのうちに選択を迫られている。
一つの道しかない場合は、その道を進むしかないから楽である。
もし、定食屋にカキフライ定食しかなければ、牡蠣に当たっても文句は言えない。そこに関しては選択の余地が無かったのだから。
ただ、今度はお店選びの選択に失敗したことになる。ただ普通に暮しているだけでも、実はいろんな選択肢を乗り越えているのだ。
幾つかの道を選択できるとき、どの道にしようか悩む。
選んだ道が正解だったときは喜ぶし、不正解だったときは悲しむ。
ただ、その道が正解か不正解かは誰にもわからない。だって、それ以外の道を歩んでいないのだから。
AとBの壁どちらかを破って、泥水に飛び込んだとしても、それが正解かはわからない。
Bが泥水で、Aがうんこかもしれない。
バラエティ番組のようにネタ明かしも別撮りのカメラもない。
僕らは選択した道がどうあれ、ただ歩み続けるしかないのだ。
運命のあみだくじがあったとする。
選んだ選択肢を、辿って、辿って、辿って、一番下に書かれている文字は何になるだろう。
五つ選択肢があったとして、幾つもの直線や曲線を通って、一番最後に行き着く答えは何になるのだろう。
絶対に、絶対に、絶対に、それは自分にとって正解の道に辿り着く。
他に選んだ道は、全部不正解。
失敗。残念。終了。最悪。無理。
そう思うしかないのだ。
僕はいつも失敗したとき、すぐ後悔する。
けれど、それと同じくらいのスピードで、立ち直る。
「僕が選んでいない他の道は全部死んでた」
こう思うようにすると、たとえ失敗したとしても、ほんとに小さな、なんてことのない失敗だったと思える。
逆にその道を選んで良かったとさえ思う。
もちろん、反省もするが、落ち込んでてもしょうがない。違う道を選べば…と後悔しててもしょうがない。
二つの道を車で走って、遠回りの道を選んでしまって後悔しても、もう片方の道を選んでいたら交通事故に遭っていたかもしれない。
そう思うと、遠回りなんてウェルカムだ。
選んだ道を胸を張って歩んで、また次の分かれ道を選択するしかないのだ。
後悔なんかしてる暇はない。
だから、運命のあみだくじがあったとき、迷わず一つ、選べばいいだけだ。
だって、全部、その人にとって最悪の道ではないはずだから。
最高かはわからないけど、選んだ道を歩んで生きているのなら、それだけでいい。
病気にもならず、事故にも遭わず、生きているだけで、ラッキーと思うしかない。
その道以外の道は、全部、死に繋がってるのだから。
…あ、死んだらすみません。
そのときは、もう、しょうがないです。
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