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8月31日のガソリンスタンド


ガソリンの独特な臭いにも慣れてしまった。

昨年の8月にアルバイトとして雇われた当初は、あまりの臭いの強烈さに気持ち悪くなって嘔吐してしまうこともあった。
あれから丁度一年が経った。今では嗅覚がガソリン臭さを欲しているかのように、この臭いで生を実感する。
タバコの臭いとガソリンの臭い。
それと、僕が拭ってきた汗がガソリンスタンドの制服に染み込み、また臭いとなって鼻を刺激する。


車の走るエンジン音が聞こえる。


減速して入ってくるのかと思いきや、元々スピードが遅いご老人の運転のようだ。
ほっとしたようながっかりしたような気持ちで辺りを見回す。
そこまで都会でもなくそこまで田舎でもない位置にあるこのガソリンスタンドは、車が入ってくることはあまり多くない。
セルフのガソリンスタンドも増え、人員削減が叫ばれる中、近辺でもここだけはアルバイトを3〜4人雇っている。


その内の、1人が僕だ。
アルバイトの中では最年長の35歳。
ドラマの脚本家を夢見て学生時代から脚本を書き続けるも、鳴かず飛ばず。
20代前半の頃に小さな賞を一度受賞したものの、それ以降は賞レースとは全くの無縁となり、ギラギラしていた若かりし頃の熱量もすっかり冷めてしまった。
アルバイトをいくつか掛け持ちしつつ、ラジオドラマやYouTubeドラマの脚本を書きながら細々と暮らしている。
YouTubeを筆頭にWeb媒体のドラマも増えてきたが、やっぱりTVのゴールデンタイムに流れるドラマの脚本を書くのが夢だった。


パイロット、刑事、弁護士、医者、美容師、シェフ、サラリーマン…
学生の頃に憧れた職業は、全部TVドラマで見るものばかりだった。
そのどれにもなれなかった僕のドラマは、どこで道が外れたかはわからずに中途半端な都市部のガソリンスタンドを舞台としている。


1日に数十台くる車の給油口を開け、ガソリンを満タンに入れる。
車の窓を拭き、灰皿の吸い殻を捨て、お金を貰う。
1年前はアルバイトの経験を執筆に生かせればと期待したが、何も起こりゃしない。
ガソリンスタンドはドラマにならない。ガソリンスタンドを舞台に脚本は書けない。
乗っている車や人は違えど、形式的な会話や仕事内容は毎日同じ、同じ、同じ。
繰り返しの日々に加え、この暑さ。
不満は出ないが、大量に出る汗が鬱屈さを物語る。


今日は8月31日。夏の区切りをどこでつけるかはわからないが、夏の終わりを告げるように今日も車通りは少ない。

暇を持て余し、ぼーっとしながら空を見上げる。夏の終わりといっても、カンカンの太陽は全く終わらせようと思っていないようだ。
この時期になっても日差しの強さは変わらず、太陽を直視することができない。
遠くの道を見つめていると、モヤモヤした向こうの景色から一台の車がやってくる。
少し古めかしたベンツ。車は全く詳しくないが、エンブレムを見ただけでわかる。


騒がしいエンジン音を連れながら、僕の方にウインカーを光らせる。
僕は慌てて誘導してガソリンスタンドへ招き入れる。

所定の位置へ車を停車させ、窓から顔を出したのは優しそうな老人だった。
助手席にはこれまた優しそうな老婦人が見え、こちらを見てニコニコとしている。
老人は「レギュラー、満タンでお願いします」と丁寧な口調で語りかけ、いつもの会話のやり取りをする。
「窓はお拭きしますか?」「吸い殻などのゴミはありますか?」
ガソリンを入れながら、窓を隅々まで拭く。
日頃から洗車をしているのだろう。ほとんど汚れていない綺麗な窓を、なぞるように拭く。
サイドミラー越しに自分の顔が映る。増えたしわと減った髪の量が、経る年月を感じさせる。


もし、この老夫婦がドラマチックな展開のきっかけになる存在だったとしたら。
もし、僕の人生のドラマのキーパーソンになるような役柄だったとしたら。
もしかしたら、どこかのTV局のお偉いさんかもしれない。もしかしたら、どこかの大企業の取締役かもしれない。
そんなことを妄想しながら、吸い殻のゴミを捨てる。タバコの臭いが鼻につく。
よほどタールの強いタバコだろう。あまり嗅いだことのない臭いだ。

ガソリンを満タンにして、給油口をきつく締める。エンジンをかけてもらい、窓からお金を貰う。
何ら変わりのない一仕事を終えようとしたとき、老人が声を掛けてくる。
「暑い中、大変ですね」と思わぬ一言。少し動揺する。
「あ、あぁ…はい、そうですね」
最低限の返事だけして車を見送ろうと思ったところ、老人が財布から1枚の切符のような紙切れを窓から差し出してきた。


「もし、よかったら涼みにでも来てください。割引きしますので」

渡されたのは、コーヒー100円の割引き券。
どうやら近所の喫茶店で夫妻でやられているようだ。昔ながらの店名や字体、そして老夫婦の雰囲気で店舗のイメージも大方予想ができる。
僕は「ありがとうございます」と一言言って、走りゆく車を見送る。
最後までニコニコしていた老夫婦のベンツは、ゆっくりとゆっくりと、速度を少しずつ速めて遠ざかっていく。


一直線の道を走る車が見えなくなって、もう一度割引き券に目をやる。
よく見ると小さな文字で隅っこに、
『有効期限 8月31日』と書かれている。
なんだ、今日までではないか。老夫婦の優しそうな笑顔を思い出し、つられて笑ってしまう。


鼻についた汗や、タバコや、ガソリンの臭い。脚本にしても伝わらないリアルな臭いをひとまとめにして、いつもの仕事に戻る。
変わらない毎日、つまらない毎日、僕の描くドラマの脚本。
車がやってきて、ガソリンを入れて、また車がやってきて…


…お客さんがやってきて、コーヒーを入れて、またお客さんがやってきて。
頭の中で描く脚本が、コーヒーを入れる喫茶店の老夫婦の姿と重なった。
カランコロンと鳴るドアの奥で出迎え、コーヒー豆を丁寧に挽き、あの笑顔で見送る。
同時に、夢を諦めかけていた僕と、優しく穏やかな老夫婦の姿も照らし合わせる。


8月最後の日、ドラマチックな展開にはならなかったが、1枚の割引券から始まる物語も悪くない。
僕は割引券を大切に握りしめ、8月31日の脚本を構想する。




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