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To Be Continuedな日々


マンガは次の巻につづく。
アニメは次のシーズンにつづく。
ドラマは次の話につづく。


今作で終わると思っていた映画も、次作を仄めかす終わり方だった小説も、企画がおさまらなかったバラエティ番組も、YouTubeの動画も、明日に、次週に、次作に、つづく。

もう『3』までやったから、とか。
前作を超えられないだろうから、とか。
有終の美を飾ったから、とか。
そんな妥協や、弱腰や、本音を存分に含みながらも、なんだかんだで次につづく。


それはつづくことで何かが生まれると、誰かが信じているからだ。
たとえどんなに『3』の壁が高くても、最高のエンディングを迎えたとしても、そのつづきを待ち望んでいる人がどこかにいるからだ。

もちろん、それを非難する人もいる。そっちの方が多いかもしれない。
やれ蛇足だ、やれ冗長だ、やれオナニーだ。
本来は終わっていたはずの物語が、何かしらの作用が働いて終わらなかった。
そうすることで誰かにお金が入るとか、誰かが偉くなるとか。
そんな悲しい理由でつづく話もあったかもしれない。大人の事情でつづかざるを得ない話もあったかもしれない。


あそこで終わっておけば、と誰かが嘆く物語。
誰からも望まれていないのに、ただひたすらつづく物語。
そんな物語が現在進行形で進んでいるとしたら、どうもやりきれない。

こんなことを考えたのは、人生も同じようにつづくしかないと思ったからだ。

サッカーの日本代表がオリンピックで敗退して、誰かが「次に進むしかない」とインタビューで答えていた。もう来月にはW杯予選が始まって、「次につづく」からだ。
W杯が終わったら、今度はすぐにアジア杯予選が始まって、本戦があって、オリンピック予選が始まって…。
おそらくこれは僕が生きている限り、一生つづくのだろうと思った。
仮にW杯で優勝したとしても、すぐに次の何かしらの戦いが始まって、つづいていくのだろう。この世からサッカーが無くならない限り、無限ループでつづいていくのだ。

もちろん、区切りという意味でのおわりはたくさんある。
何かを辞めたとき、卒業したとき、合格、昇格、優勝、敗退、結婚、失恋。
でも、どれもこれも、必ずつづきがある。
そしてそれは、新たなはじまりでもある。
遠くから見たら「つづく」でも、近くで見たら「おわり→はじまり」の連続なのだ。

一日一日、毎日がつづいていく。
今日が終わって、明日が始まる。それが7日間つづいて、今週が終わって、次の週が始まる。それが4週つづいたら今月が終わって、それが12ヶ月つづいたら今年が終わる。
ずっとこのサイクルで回っている。ずっとこのループで回っている。振り返っても、前を向いても、この毎日がずっとずっと回っている。


いつかくる終わりの日まで、
この日々はつづいていくしかないのだ。


スマホのカレンダーを、下にどんどんとスクロールしてみた。
とにかく進み、進みまくって、3309年までやってきた。
これでもまだ終わらない。3531年、4104年…どれだけ親指を動かしても、まだ終わらない。
結果、おわりを見ることはできなかった。未来は終わらなかった。
僕らのカレンダーに、結末はなかった。

そう、この先もずっとずっと人生はつづくのだ。マンガが、アニメが、ドラマがそうだったように。
誰もおわりを想定していないのだ。どんな形でもつづく人生を選択するしかないのだ。
自分がどれだけ嫌だったとしても、おわりを望まない人がきっとどこかにいる。


そう信じて「つづく」日々を生きるしかないのである。

3時未明。
今日が終わり、また明日が始まる。
眠れない夜を乗り越えると、すぐに朝日がやってくる。
過去が終わって、現在を通り過ぎて、未来が始まる。

こんな同じような表現をダラダラと間延びして書いているときは、いい文章の締め方がわからないときなのだけれど、結局いい一文が思いつかないので、また次に。

つづく






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