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缶コーヒーに溶けた幾つもの嘘


僕は缶コーヒーを無糖で飲む。

昔からそうだった。
人目を気にして、カッコつける癖があった。誰も見ていないのに、誰かに見られていると常に思い込んで生活をしていた。
いつしか、「人の目を気にすること」が僕の特技になった。

俯瞰して見て、目立っていないか。
一歩引いて見て、集団に溶け込めているか。
客観的に見て、異常ではないか。
あらゆる角度から見て、正常と思われる人間を演じてきた。
自らに蔓延る不純物は全て排除して、見かけは綺麗でまっさらなフリをして、笑う。

愛想笑いは自然と身に付いた。
こみ上げる感情はどこかに置いてきて、誰からも悟られないように、ただ笑う。
喜怒哀楽という言葉を知っていながらも、その全ての感情を抑えて、ふと笑う。
誰かにその感情の一部を共感してもらいたかったわけではない。
何者でもない僕に、そんな資格はない。
それに、知ってもらったところで、僕は感情を無にして笑うしかないのだから。

幼稚園の夏祭り、僕は笑った。
短くなった夜の縁日で、スーパーボールすくいをした。周りには同じくらいの年齢の子が、すくえたボールと水に落ちたボールの行方に一喜一憂している。
そんな中、僕は何個もすくえたスーパーボールを目にした途端、「ヤバい」と思った。
こんなに取ってしまったら、僕は目立ってしまう。
誰かしらに「すごい取れたね」と言われて、注目されてしまう。
この小さいプールの周りで、異質な存在として映ってしまう。
そう思った僕は、誰にも見られないように、取ったスーパーボールを全部水の中に戻した。


そして、何事もなかったかのように笑った。

どんな集団でも、少し目立つと、それが普通でないかのように見える。
それ以来、僕は他人の目を気にして生きるようになった。

学校に入っても、友達の目、先生の目、女子の目、親の目。
細かく張り巡る赤外線レーダーのように、あらゆる視線が僕に向いていると勘違いをしていた。
周りの目に映るその姿は、手振れで酷く捻じ曲がった、芯のない自分。
そこに信念など、とうに存在しない。
ただ、他人の目に映る自分が、善悪の二択になったとき、善の秤に振れることだけを念頭に置く。
外した学ランのホックも、鞄の持ち方も、淡い色のセーターで隠した手の甲も、誰も気にしていないのに。
変じゃないか、カッコ悪くないか、漫画や映画で見た主人公の取り巻きに入れているか。
自分は一体、何を目指しているんだろう。
見た目を気にした空っぽの器には、何が入っているのだろう。


僕は缶コーヒーを無糖で飲む。
それがカッコいいと思っているからだ。
そこには小さな嘘がたくさん詰まっている。

本当は砂糖が欲しい。
なんならミルクが欲しい。
もっと言えばコーラが飲みたい。

でも、自販機にある選択肢の中で、1番カッコよくて、大人ぽいものを選ぶ。
表面上の、上っ面だけの、薄っぺらい何かを身に纏った自分は、誰の目もない路上の自販機であっても、嘘をつく。
もはや、この嘘が自分らしさなのかもしれない。
子供の頃から隠してきた本心は、全て見栄や嘘によって消えていった。
あのとき落としたスーパーボールのように、静かに水の中へ溶けていく。
そこが、自分にとっての安息地なのだ。
僕はそこで、小さく笑っている。

僕が飲む缶コーヒーは、砂糖もミルクもなく、ただ、幾つもの嘘だけがゆっくりと溶けていく。

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