有象無象の隣合わせ



没入と、隣合わせる。


電車で右隣に座った人が、何やら分厚い単行本の小説を読んでいる。
シャーペンで文字を追いながら丁寧に読み進める姿に、熱心な読書家の印象を受けた。
「何を読んでいるのだろう」と思うが、そこまではわからない。
ただ、一文一文の情報から一語たりとも逃すまいという志、得られた情報をスッと吸収して自分に落とし込もうとする姿勢、静かでささやかな感動に触れようとしている眼差しは、完全に世界に入り込んでいた。
恋愛の世界かミステリーの世界か、はたまた純文学の世界か短編の世界か。
文字を追う手が止まらないまま立ち上がり、何かしらの世界に没入している人は次の駅で降りる。


退屈と、隣合わせる。


左隣に座る人は、何をするでもなく、退屈そうに目的地に着くのを待っている。
何か考えているのかもしれないし、考えていないのかもしれない。
今日の夕飯か、昨日の夢か、明日のTVドラマか。苦悩しているのかもしれないし、回想しているのかもしれない。
でも、その人はスマホを見るでも本を読むでもなく、じっと座る。
イマドキ珍しく、不思議に思うが、たまに出る欠伸を見ると寝不足なだけなのかもしれない。
うとうとしているので寝るのかと思ったところで立ち上がり、退屈な人は次の駅で降りる。


愛と、隣合わせる。


右隣に座った人は、赤ちゃんを抱えている。
まだ小さいからだを丸め、胸の中ですやすやと眠っている。
抱き締めるお母さんは全身で愛情を注ぐ。
その愛情に応えるように、赤ちゃんは生命を預けてガタンゴトンと揺れる。
本当の親子じゃない可能性だってある。血が繋がってない可能性だってある。
それでも、右隣から伝わる相互の愛情は、あたたかくやさしい空気に包まれていた。
微かな寝息が、空気を通る。
その息に釣られてうとうとするお母さんに、どこか似たのかもしれない。
はっとしたところで立ち上がり、愛情に満ちた人は次の駅で降りる。


岐路と、隣合わせる。


左隣に座った人は、スマホで転職サイトをスクロールしている。
次々と現れる会社の名前を、どれほどの熱量で眺めているかはわからない。
「転職しようかな」くらいの軽い気持ちかもしれないし、「今の会社を辞めた過ぎる」という疲労のピークの上での決断かもしれない。
転職が当たり前となっている時代で、それでも職を変えることへの勇気は大きいものがある。
家族の期待、収入の問題、自らの展望、生き甲斐。さまざまな要素を照らしては消して、照らしては消して。
詰まるところ、どれにスポットライトを当てるかで行く道は決まる。
その人は岐路に立っていて、どの要素を、どの道を照らすか悩んでいるのかもしれない。
悩んだ結果、ずっと暗いままの道を歩き続ける可能性だってある。
ライトを手探りで動かしているところで立ち上がり、岐路に立つ人は次の駅で降りる。


死と、隣合わせる。


僕の隣には、誰もいなくなった。
その瞬間、人身事故の車内アナウンスが流れる。電車が止まり、時間が止まり、誰かの人生が止まり。
もしかしたら、代わる代わる座った人の中に、死を決意した人がいたのかもしれない。
没入が、退屈が、愛が、岐路が、一転して死に直行したのかもしれない。
それくらい、死は、全ての人にとって隣り合わせにある。
他人事じゃない。遠い未来の話じゃない。
今すぐに、この場所で、ひとりで、その時を迎えるかもしれない。
電車はまだ動かない。僕の隣にいる死も、そこから離れようとはしない。


この人生はみんな、有象無象ばかりだ。
意味があるのかないのかわからない。
役立つのか立たないのかわからない。
本だって、暇だって、子だって、職だって。
それでも、電車に揺られながら有象無象は走り続ける。時速何キロで。回り続ける。動き続ける。生き続ける。
今日も誰かの何かを隣合わせにしながら、走る。どこかで降りて、また乗り込んで。
遅延しないことだけを祈り、有象無象と隣合わせに座る。


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