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たそがれんな


「たそがれんなよー」

栄先生は帰りのホームルームをいつもそうやって終わらせる。

僕らはそれが合図かのように席を立ち、ばらばらと教室を出る。ほとんどの生徒は早く家に帰りたい一心で、部活動に向かいたい一心で、何も疑問に思うことなく立ち去る。6限目を終えた後の窓の外では夕陽が空を照らし、夜を迎える準備をする。

高校2年生を終えようとしている僕なのだが、「たそがれんな」とはどういう意味だろうと毎回思う。もちろん「黄昏れるな」という意味なのはわかるが、それは帰り際に放たれる台詞として適しているのだろうか。

帰宅部の僕はそんなことをぼんやりと思いながら教室を出て下駄箱へ向かう。外に出ると冬の凍てつくような風が唸りを上げて、ふうと息を吐く。キャメルのチェスターコートに包まれ、スマホをいじりながら帰り道をとぼとぼと歩く。

栄先生の言葉が耳に残りながら「黄昏れる」の意味を検索すると、「日が暮れて薄暗くなる」「盛りを過ぎて衰える」とあった。どうやら「物思いに耽る」「ぼーっとする」という意味は誤用らしく、8割の人が間違って使っている、と嘘か本当かわからないサイトに載っていた。

僕はそのサイトをまさにぼーっとしながら見ていた。栄先生の「たそがれんな」は学校帰りにぼーっとせず、まっすぐ帰れよ、とそう伝えたいのだと思っていた。道に迷うことなく、寄り道することなく、今の僕みたいに、たそがれるな、と。

しかしこのサイトの情報が正しいとするなら、僕の解釈は間違っていることになる。はたまた栄先生の認識が間違っていることになる。どうでもいいことに深く突っ込んでしまうのは僕の悪い癖だ。だが、一度気になってしまったものはどうしようもない。

僕は帰り道にある公園に入りベンチに座る。昔よく遊んだちいさな公園。あの頃に夢中だったカラフルな遊具は誰もいないと一層の侘しさをたたえ、公園自体が閉店間際のような状態になる。そんな公園のバックでは夕日がそろそろ沈みそうで、黄金色の背景が影を伸ばす。

一日が終わってしまうこの時間帯が僕はあまり好きではなかった。グラデーションのど真ん中にある、暮れなずむ時間帯。この公園のベンチでやり過ごす時間は、その日の楽しかった出来事を全てチャラにしてしまいそうで、中途半端なエンディングに突入してしまうコマーシャルのようで、何となく目を背けたくなった。

今日も地球はいつも通り回っていて、世界のどこかで黄昏の時間があって、この景色はみんなの目にどのように映っているんだろう。

一日が終わる前の最後の灯りで、
夕日が沈むと世界は消えてしまう。

僕は物思いに耽ながら、夕暮れを眺める。この景色を、この目線で、この感情で見られるのは今日しかない。明日にはどう見えるだろう。明後日、来週、来月、来年…違う服を着て、髪型を変えて、背丈が伸びたら見え方が変わるかもしれない。テストの点数が悪くて、親と喧嘩して、失恋したら違うように映るかもしれない。期待も、失望も、高揚も、哀愁も、全てを包み込むような黄昏時に救われた自分がいて、殺された自分がいて。

「おーい、お前、何やってんだー」

どこか耳馴染みのある声が聞こえる。公園の外に1人男性がぽつりと立っている。黄昏た夕刻に映るその顔は、遠目で見ると暗く陰って誰だか判別がつかない。でも、この声の主が次に放つ台詞は大体わかる。「すいません、もう帰ります」と言ってベンチから立つと、遥か彼方の向こうからこだまするように声が響く。

「たそがれんなよ、まだ若いんだから」

僕はその言葉を聞いて、栄先生は誤用していなかったんだ、とあのサイトを思い出す。ここからは僕の勝手な解釈だが、きっと、盛りを過ぎるな、というシンプルなメッセージだったんじゃないかと思う。

黄昏はピークアウトだから、くよくよしないで生きろ、と。先は途方もなく続くのだから、日の長い一日を全力で生きろ、と。
黄昏てる場合じゃない、悩んでいる場合じゃない、まだまだ影を作るには早い、時間に囚われるな、時代に飲み込まれるな、と。

僕らの生きる空が、たそがれんな、と。

気が付いたら黄昏なんてどこにもない。そんなものは夢だったかのように、僕の実像を差し置いてどこかへ消えてしまう。時の流れは残酷で、あっという間に夜がやってきて辺りは真っ暗になる。住宅街はそんな無慈悲な暗闇に抵抗して、道標を作る。増えていく灯りを頼りに歩道を伝う。夕食は何だろうと少しずつ早歩きになって、眩しい夜を駆け上がる。

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