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金字塔

私の現在の立ち位置を述べてみたいと思う。立ち位置などと表すほど大層な経歴は皆無である。ただのサラリーマンとしか客観視に耐え得る呼名はない。しかし「何もない」おっさんが大層に振る舞うことこそが譲れない私の立ち位置だと表明したい。高校生が不滅の金字塔を打ち立てると宣言すれば美しい。51歳の爺さんがそれをやることは滑稽であり、しかも笑えない。つまり見苦しいと言えるだろう。そのようなことはわかっているし、今だって、日常にある冷静な人格が突如出現し書くことを止めるかもしれない。いや、このような感情にまかせた雑文を書くことによってバランスを保っていたりする。それは元来持っているお喋りで天然感覚でしゃべってはならないことを制御しておかなければならないという、意義がある。墓場まで持っていくべき絶対に口を割ってはならない過去があるのだ。

誰が言ったのか歴史は夜つくられるという言葉がある。真夜中に狂ってしまう人間が歴史をつくるということ。これを書いている夜明け前の私は狂人でありたい。

50歳とは消化試合の始まりである。どうせ消化試合であるなら一回更地に戻ってしまうような事件でも犯したくなる。人生まだまだこれからだとか、そういう言葉はもういい。もう一度言うが私の語りが見苦しいことはわかっている。しかし私からすれば人生まだまだこれからだと自分に言い聞かせながら延命のスイッチを入れることがどうしても出来ない。でも死ねない。死ねないのだ。だから狂ってしまいたいということ。これを自暴自棄というのだろうか。

私をよく知る人々からは承認欲求が治らない人だと言われる。そもそも他人ファストなどという心持ちになったことなど一度もない。そんな気がする。私は自分、自分、自分、俺が俺が俺がだ。自己愛性人格障害などという言葉をついこないだ知ったけれど、私はそもそも、精神や心の病を定義付けする、あるいは細分化することによる人間性の仕分けコンベアに載せてもらうことは絶対に嫌だ。永遠に拒否をする。なになに症候群やらそんなことを知ってどうなるというのだ。消化試合のマウンドに上がって変化球を投げてどうなる?

二十歳の頃、頭がおかしいと疑ってそういう類いの病院に行った。当時はまだ分裂病という言葉が流通していた時代だったけれども、私には特別に強い症状はなかったので、それ以上通院することは無かった。私は私でいいと思ったし、その確信は医者の判定すら否定した。なぜならば、毎月のお給料が必要だったから。たとえ病気であっても毎月のお給料が絶対的に思えた。毎月のお給料があることが全てだった。毎月のお給料を貰うためだったら偽り親しんだ。毎月のお給料を貰うためだったらひきつりながら笑い、卑屈な奴だと嘲笑されようが共に自分も笑っていた。毎月毎月のお給料。これを不様といい、もう一つの立ち位置であり、私の0座標である。

「クリエイト」という言葉にはとても心地のよい響きがある。マンション広告にあるキャッチコピーのように中身のない私のような者であっても、踊り続けることが可能な魔法の靴のように思う。ハリボテのそれらは、いつか廃れてしまう。なんたらハックに浮かれたこの場所に不滅の憎悪を放置して去ってやろうと考えている。その金字塔が不快な廃品となったとして、それでも拾って大事にしてくれる誰かが必ずいる。

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