見出し画像

石鹸の臭い

酒谷さんは不動産会社に勤めている。
彼は営業部に所属しており、この部署には『0番』と呼ばれる仕事がある。
隠語にされているのは、瑕疵物件の確認作業だからだった。

当時、勤続3年目の酒谷さんに、この0番が発生した。
初めての0番。部長に告げられた時は心底焦ったそうだ。
「どんな物件なんですか」
「そう焦るな。お前に行ってもらうのは心理的瑕疵ってやつだから」
「幽霊ですか! 出るんですか!」
「いや、いないよ。そんなもん。だからさ、雰囲気とか細かいとこの確認してきてってこと」
渡された書類には、確認箇所や確認すべき時間帯が記載されていた。
風呂場と水回りは昼間と日没の2回。
時計を見ると午後13時。すぐに向かえば今日中に終わらせる事ができる。
早く終わらせてしまいたい一心で、彼はその物件へと急いだ。

築浅の1LDK。部屋を見渡した。
日差しは入らず、底冷えする部屋。
薄暗い雰囲気に唾を飲み込んだ。

彼は洗面台やシンクなど、ひとつひとつ確認していった。
清掃が甘かったのか、石鹸カスがいやに目立つ。
「問題なし・石鹸カスあり……っと」
最後に風呂場。
湯船の底にパラパラと何かが散っていた。
つまみ上げると、石鹸か蝋のようだった。
「これは清掃してないな。すると、これは前の入居者が出ていったままか」
湯船の側面を外し、内側を見た。
魚とチーズを混ぜたような臭いが広がる。
顔を歪めざるおえなかった。
そこには、黒や茶色に変色した石鹸カスがびっちりとついていた。
髪の毛と絡まったまま張り付いているものもある。
どれも乾燥していて、触れれば鱗のように散った。

――湿り気がないのにも関わらず、この臭い。おかしいだろ。

吐き気を抑えながら、側面を戻した。
次は日没に同じ場所を確認しなければならない。
そのまま物件で時間を潰すこともできたが、彼は外に出た。
石鹸の腐った臭いがいつまでも鼻に残っていたためだった。
しかし、外に出ても鼻は戻らなかった。
このまままた風呂場を見るのかと思うと、溜息が出た。
物件に戻ると、意を決して湯船の側面を外した。

しかし、そこには何も無かった。

つるりとした乾いた空間があるだけ。
あの鱗のような汚れはどこにも無かったのだ。
今にも鮮明に思い出せる汚れ、臭い。
なくなるはずが、なかった。
彼は逃げるように会社へと戻った。

「部長! 0番行ったんですけど」
あの汚れって何なんですか、という言葉が出ない。
喉元を押さえられたように苦しく、口がうまく動かないのだ。
荒い呼吸音ばかりが口から出ていく。

「ああ。どうだった」
部長は笑顔で彼を見据えた。
「何も、無かっただろ」
「……何もありませんでした」
「そうだろ。何も無かっただろ」
酒谷さんは部長の笑顔に押し負かされた。

汚れがあったのに消えた。
あの強烈な臭いは石鹸カスだけのものではない。
などなど、言いたい事は沢山あった。
しかし、何も無いとしか言葉が出なかったのだ。

彼の『嘘の』報告のおかげで、この賃貸物件は未だ存在する。
酒谷さんは、入居者が変わる度に胸が痛むそうだ。
そして、0番が回ってこないようにと強く願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?