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村上春樹「トニー滝谷」感想文

「もっとひどい死に方をした人間だっていっぱいいるんだ。覚悟を決め、独房の中でのんびりと口笛を吹きながら時を過ごした。」

この文章がとても印象的でこころに残った。


主人公のトニー滝谷と、その父親である滝谷省三郎はお互いが「唯一の肉親」であった。
しかし2人とも進んで心を開くことはなかった。


トニーは、ある時、誰よりも服をうまく着こなす女に恋をして、そして結婚をする。
それによって再び孤独になることを強く恐れるようになる。

しかし、女は交通事故で死んでしまい、トニーの家の部屋には女の大量の服だけが残る。
トニーはいろいろ悩むが、ついには一つ残らず処分し、部屋は空っぽになる。

女が死んだ二年後、父親である省三郎が死んだ。
トニーは父親が残した、大量のレコードをその部屋に置いた。

トニーは結局、そのレコードも処分する。

そして、短編の最後はこんな印象的な文によって締められる。
「レコードの山がすっかり消えてしまうと、トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになった。」



省三郎は若い頃、戦争時代を、上海で気楽に過ごした。

しかし戦後、省三郎は中国の独房に入れられた。
戦争に近かった中国人達と交友関係があったためだ。

同じように独房に入れられた連中は次々に処刑されていく。
しかし、省三郎はそんな運命を恐れない。

「もっとひどい死に方をした人間だっていっぱいいるんだ。覚悟を決め、独房の中でのんびりと口笛を吹きながら時を過ごした。」

結局、省三郎は釈放され、日本へ戻ることができ、そして息子であるトニーが産まれる。(母親は体が弱く、その3日後に死ぬ。)

私たちは生きていると、中国の独房に入れられ、あわや処刑にされそうになるようなことは、、、さすがにあまりないが、まあそこまで行かなくとも辛いことは私達の生活の周りに溢れている。

仕事がうまくいかなくなったり、恋人と別れたり、家族を失ったり、交通事故に遭ったり、うつ病になったり。

この小説の中で「服」と「レコード」は、「愛」、
トニーの家の部屋は「心」の表象となっていると私は考える。

トニー滝谷は、妻ができたことによって、自分の孤独に本当の意味で気づいた。
妻は大量の服という形で「愛」の残骸みたいなものを部屋に残した。
服を処分すると、彼女の愛で埋まっていた部屋は空っぽになった。

本文では明言こそされていないが、彼女に出会ってからおそらく、トニーは心を開くことのなかった父親を失うことを強く恐れていたのではないか。

孤独を知ったことで、父親は自分にとって1番大きな「愛」であり、それを失うことこそが「本当の孤独」であると知ったから。

その証拠に、トニーは彼女の服を置いていた部屋に、父親の死後、彼のレコードを置いた。
つまり彼女の愛を父親の愛に置き換えたて、孤独を埋めようとしたのだ。
そのレコードを処分して、ついにトニーは1人ぼっちになる。

そこで物語は終わるが、多分彼は「大丈夫」だろうと私は思う。

なぜなら、彼は省三郎の息子だから。
トニーはいつかきっと自分の父親と同じように「覚悟を決め、独房の中でのんびりと口笛を吹きながら時を過ごす」ことが出来るだろう。

「孤独な人」と、「孤独でない人」。
そんな分け方は出来ないと思う。

全ての人は孤独だ。
「孤独に気づいた人」と「孤独に気づいていない人」がいるだけだ。

トニーの部屋だって元をただせば最初は空っぽの部屋だったはずだ。
そこにいろんな愛(物)を置いてみただけなのだ。



私にも社会人になった時、人並みに精神を病み、辛い日々があった。
それは自分にとって、本当の意味で人は孤独なんだと気づかされた時期だった。

人は必ず孤独に押し潰れそうな日々にぶち当たる時がある。

それはまるで、中国の独房の中で処刑を待つ日々のようだ。

でも、私たちは大丈夫。
覚悟を決め、孤独という独房の中でのんびりと口笛を吹きながら時を過ごせば良い。

省三郎がそうしたように。
そして、トニーがおそらくそうしたように。

独房から抜け出しせた時は、私たちも空の部屋に服やレコードを置いてみる。
結局それらはいつか処分される物かもしれない。

それでも構わない。
それが人生なんだと村上春樹はこの短編を通してそう教えてくれる。

私達は、孤独な心に仮の愛を、断定的に置いて生きていく。
きっと出来るはずだ。


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