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監督は黙り込み、選手は踊り出す。

しばらく前の話しにはなりますが
中学生のリーグ戦の主審をやったときのことです。

自力に勝るAチームが
前半から得点を重ねていきました。

それと共に
対戦相手Bチームの監督さんがヒートアップ。
プレーしている選手たちへの言葉が
否定と命令のオンパレードになってしまいました。


「 なんでそこで失うんだよ! 」


「 だからマークしろって言っただろ! 」


「 右に出せ!右に! 」


「 繋がないでいい!蹴ろ! 」


イライラしてきて
言いたくなってしまう気持ちはわかる。

でもBチームの選手たちが
思い通りにプレーできていないのは
決して手を抜いているからではなく
相手のパワーと勢いに圧倒され焦ってしまうことで
技術的なミスをしてしまっているから。

こうなると
監督さんがヒートアップすればするほど
チームのパフォーマンスは悪化していくだけ。

相手のプレーの圧力に加えて
監督さんの言葉による圧力が加わってしまうのだから…

そして懸念した通り
Bチームのプレーから思いきりはどんどんとなくなり
表情からは生気も奪われていき。

これ以上
言い方がひどくなってきたら言わないといけないかな
と思った後半なかばくらいでした。

Bチームの監督さんは
連続失点してしまったことで
試合を投げ出したかのような姿勢でベンチに座り込み
完全に黙り込んでしまいました。

それはそれで、ちょっと切ないよなぁ…

なんて思っていたら
面白いのはここからだったんです。

Bチームの選手たちは
それまでと同じように攻め込まれては
失点を重ねてしまっていました。

ただ、内容は確実に変化していて。

全く止められていなかった相手FWの選手を
抑えることができるようになったり
相手の鋭い縦パスをインターセプトに行けたり
ラスト2分では自陣ゴール前の深い位置から
全員でパスコースを作りながら前進し
決定的チャンスを生み出せたり。

明らかに、プレーのクオリティが上がったのです。

でもそれは
思考で理解して解決していけたという変化ではなく
感覚で掴んで対応していけた変化という感じ。

渋谷や新宿のような
人・看板・音などの情報過多な街中にいると
それら「ノイズ」になるようなものから
自分の身を守るために無意識に感覚を閉じてしまう
という話しを聞いたことがあります。

逆に自然の中では
そうしたノイズになるようなものがないから
心が落ち着き、安心して感覚は開いていくと。

Bチームの選手たちは
監督さんからのネガティブワードという
ノイズが消えたことで感覚が開いて
再びプレーできるようになったのかもしれません。

「プレー(Play)」は「遊ぶ」こと。

選手たちがいいプレーをするためには
大人のノイズで邪魔をしちゃいけないよなって
10000%の自戒を込めて、そう思います。


『 ” 邪魔をしない ” ということは
 密林に生えた小さな芽が
 目指す空を見せてくれるもいうことなのだ。
 未来が不透明といわれるなか
 指導者に必要な倫理は
 豪雨を降らせる高度経済成長期の
 ” 教えねばならない ”
 という強迫観念から逃れ
 若芽を信じて密林にスキマを開け
 自発性の成長を待つ
 ” 邪魔をしないという勇気 ”
 なのではないだろうか。 』

「 飛び立つスキマの設計学 」(椿昇、産学社)


試合は結局、Bチームが0-10で負け。

最後の両チームとの挨拶を終えた後
どうしても伝えたいなと思い
Bチームの選手たちに話しかけてみました。


「 最後15分すごく良くなったね!
 相手の攻撃に対応できるようになって
 全員でチャンスも作りに行けるようになって。
 次に見れるときをまた楽しみにしてるよ 」


選手たちはみんな
これ以上ないくらいポッカーーーンとした表情(笑)

大敗という結果だけに頭が支配されませんよーに。




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