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みんなでごはんを食べましょう(食事の歴史)

こんにちは。歴史民俗博物館や郷土資料館を見学しているものです。
みなさんの、今日のご飯は何でしたか。
日本人は昔、何を食べていたのかをたどりながら、今のご飯、さっそく今日のご飯をどうするか考えていきませんか。
なお、食事は地域により、または家族や個人により多様すぎますので、おおまかな「時代別のくくりかた」で見ていきます。

旧石器時代…今から数万年前。まだ日本列島はできていない。食が乏しい氷河期からはじまった。

今から数万年前、日本はユーラシア大陸と陸続きだった。
つまり、今より寒いために植物などは育ちにくく、見渡す限りの荒野。
人々はマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなど寒冷地ならではの大型動物を見つけたらゴチソウであり、むしろ食べられる生き物自体が少なく、昆虫など食べられるものは何でも食べていたのでしょうな。平均寿命も10代だとかでとても短かったのだろう。
(旧石器時代に残っているものは少ないからよくわからないことが多いが。)

宮城県の富沢遺跡。約2万年前の後期旧石器時代の石器や焚火のあとが見つかっている。

縄文時代…温暖化が進み、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物は滅ぶ。ただ、温暖化により植物が豊かに。

今から1万数千年前ごろか、温暖化が進み縄文海進がおき、日本列島が形成されたころ。
温暖化は生態系を変化させる。ナウマンゾウなどの大型動物が滅ぶほか、特に落葉広葉樹が広がり「落ち葉や木の実→虫など→小動物→中型動物」など生態系が豊かになる。
そして海面上昇。これまで産地だった場所が海に沈み、多くの半島や湾ができ、山地の森林からの養分も海に流れ、日本各地によい漁場が増える。
土器の発明は必然か、食料の保存、煮炊きにより「焼く」以外の調理法が拡大し、肉食や菜食など食のバラエティーが増える。

富山県hpより、縄文時代の食生活カレンダー。

米はまだ伝わっていないため、おそらく主食は炭水化物やたんぱく質など栄養価が高い木の実(ナッツ類など)であろう。ドングリやクルミなどを砕く「粉食」などのあとも見つかっている。
調味料は海水などの塩味が中心。土器で海水を煮詰める製塩もあったようだが、基本は海水や食材から染み出すダシが味付けだったのだろう。
まあ、何より縄文時代は1万年以上の歴史を持つ。
丸木舟による日本各地や外国との交流もあり、多様な食文化を築いていったことだろう。酒も果実酒が作られていたのではないかと言われる。

#春日部郷土資料館より。寒冷な、今なら北海道でしかとれないサケも見られるということは、交流があった証拠か。鍋にあるのは木の実らしいが「あくまでイメージです」と学芸員さん。
横浜市立博物館より。貝を煮ている。

弥生時代…大陸から稲作が伝わったとされる

(諸説あり、縄文時代から原始農耕があり、稲も縄文前期から稲のあとが見つかるなど、陸稲など一部栽培されているのがあった?)。
最初の米は品種改良前で、色も赤や緑や黒とか。おもに蒸して食べていた。
ただ、大量に食べていたというわけでもなく粟や稗などの雑穀や縄文時代以来の食料も引き続き食べていた。
魏志倭人伝には、日本人は生野菜や生魚を多く食べていたのに中国人が驚いている記録がある。生魚を食べる習慣は今でも日本以外ではとても少ない。

おもに左側の「かまど」ではなく「土器を立てて蒸す」のが米の加熱方法だったようだ。
北区の飛鳥山博物館より。桃があるということは弥生時代ごろか。米の粥かと思われる。

味付けは、「醤(ひしお)」のような豆や魚・肉などの発酵食品もあったように思える。田からとれる小鮒などの雑魚類を発酵するなれずしや塩辛などがあっただろう。
今の米食とイメージは大きく違うだろうし、米は祝い事でめったに食べるものではなかったろうが、農耕の拡大により平均寿命も人口も大きく増えたようだ。
(酒は、当時は「口かみ酒」であり、米を噛んで唾液の酵母にからめて、吐き出して発酵させる酒が中心。やがて奈良時代などでの風土記で、カビ=麹による発酵を思わせる記述から、口かみ以外の酒もいつごろかに広まったようだ。いずれにしても、当時は濁酒(どぶろく)が中心であり、清酒が広まったのは江戸時代ごろである)

古代律令制へ…庶民と貴族で二極化していく。

庶民は玄米・菜(野菜をゆでるなど)・汁(海藻など)、調味料は塩をつけて食べる感じ。
ただ、これもごく一部で、貧窮問答歌のように食うや食わずや。または魚や獣肉など、狩りを行っていたとも考えられる。
貴族は全国から税として、米や特産物などを送らせていた。

なので、干物や発酵食品など保存食が中心。
規制としては、仏教の影響で「肉食禁止令」が度々出され、獣肉が禁止された。
また、陰陽道や個人的なまじないや占いで、食べてはいけない規制をいろいろつくっていたようだ。
ただ、大陸との交流もあり、唐菓子や乳製品(蘇や酪など)も食べていたようだ。菓子はおもに水菓子、果物。小麦を練ってつくった餅などもあったが、砂糖はほとんどなかったと考えられる。
箸の利用は弥生時代からピンセットやトングのように使われ、飛鳥時代に中国の影響で朝廷で利用されるようになり、庶民に広まるのは奈良時代後半くらいから、鎌倉時代ごろから匙でなく箸が中心となった、以前はほとんど手づかみや匙が利用されたようだ。

平安時代は、貴族が豪勢な食事をしていたようだが、だいたいはこれは「見て楽しむ用」であり、立派にかざるために大量の塩を利用していた。食べると体に悪い。実際に食べる用は別であるが、それでもほとんど体を動かさない貴族たち、当時の貴族は生活習慣病で悩まされていた。
いわゆる贅沢病。江戸時代の白米文化(ビタミンB1不足による脚気の流行)も、現代の飽食すぎる生活習慣病もそうなのかも。

基本、あまり調理せず、塩や醤(豆などを発酵)や酢や酒をつけて食べていたようだ。

制約のない充実した食事をしていたのは、地方有力者や武士だったようだ。

鎌倉時代…粗食ながらも食のバリエーションが豊かに!

貴族たちが、めったに体を動かさない不健康な状態で、不健康な(栄養過多、さらに塩っぱいものが多い)食事で病気が広がっていたころ。
武士たちは毎日体を動かし、いろんな貴族のしきたり(肉食禁止など)を無視した肉食・魚食文化で細マッチョな感じに成長していった。

地方では農民たちが農業を発達させ、米や野菜などの生産量が拡大。
武士たちは年貢を取り、おもに主食は玄米。二毛作により麦飯も多かったのか。当時も玄米を蒸して食べていた強飯だったのでやたら硬かったことだろう。
当時、大きな革新が味噌の広がりだ。禅宗(仏教は肉食より大豆を重んじるし、禅宗を経て中国からの食文化の流入)が広がり始めたのもあろうが、なんといっても武士や貴族への重い税、しかしながら世の乱れで統治が進んでない乱世、人々は協力して農業技術を大きく発展させていた。
米とちがい、麦や豆は税として取られなかったため、人々は二毛作で米以外の作物に力を入れる。
そしてすり鉢とすりこぎが発明され、麦や米や大豆を磨り潰すことが広がった。米ぬかによる糠味噌、麦味噌や大豆味噌。
味噌汁(平安時代は羹といい塩味のスープ)や、味噌をおかずとして食べていた。
肉や魚、特に鎌倉は琵琶湖や鴨川など川魚が広まった内陸の京都とちがい海に面しておりイワシなど、とくにカツオが、武士の中でカツオは重宝された。
鰹節のもととなったカツオの干物である「堅魚」やその煮汁「堅魚煎汁」は京都の貴族への税として納められたが、まだ鰹節は江戸時代ごろに今のような形式になるにしろ、カツオをよく食べていたことは考えられる。
そして、何より「梅干し」だ。梅干しは食欲増進や覚醒作用などがあり、薬食としても武士の間に広まった。

一方、民衆は玄米があればいいものを、麦や雑穀などの粥や雑炊で、野菜などをいっしょに煮て食べていたようだ。

室町時代…バリエーションが広がる武士の食事。

幕府はふたたび京都に置かれ、武士の習慣は再び貴族化する。
しかし同時に、産業が大きく発達し、宇治の茶、甲斐のぶどう、紀州みかん、土佐のカツオや北陸のサケ、駿河のタイなど、各地で特産物の生産が広がる。
武士は「湯漬け」という、米に味噌や梅干しなどおかずをそえてお湯をかける簡単な料理を好んだ。この湯漬けが好物で桶狭間の戦いで今川軍と戦う前に湯漬けをかっこんだ信長の好物も焼き味噌(尾張出身・名古屋の赤味噌などが好物だったのだろう)、秀吉は割がゆ(秀吉は麦飯が好物だったが、米や麦を砕いてつくった粥)、家康は麦飯が大好物で、基本みんな質素だったらしい。(この戦国時代の三英傑といわれた3人の出身が尾張と三河=愛知県というのもあっただろう。ところで、戦国大名が各地の郷土料理のもとを作ったという伝承も多い。武田信玄のほうとう鍋だとか。)

ちなみに武士は1日2食米5合、戦国時代に戦があれば米の支給があり1升で1日5回ぐらい食べていたようだ。戦=ゴチソウ食べれる大イベントだったのだろう。
さらにサバイバル食として、腰には芋がら(ずいき=さといもの茎)を味噌で煮つけたものをロープまたは食料として使い、味噌玉や兵糧丸(いろんなものを団子にしたカロリーメイト)を携帯し、頭に兜がわりにかぶった鍋などで即席みそ汁を作っていたようだ。基本、中世から近世の食事はみそ汁中心であったようだ。
ご飯と漬け物・みそ汁の一汁一菜の食生活が次第にはじまっていくのだろう。

調味料は味噌や酢が中心。酢は殺菌作用があり生ものを食べるときは醤油より酢が中心だった。
砂糖は、奈良時代に中国から鑑真などが伝えたが薬のように貴重品であったようだ。室町時代から琉球王国との交流がはじまり少しずつ広まり始める。
しかし、狂言の「附子(ぶす)」のように、寺社や貴族がこっそり持っていて大事に食べていたもののようだ。砂糖を直接食べたり(茶色いザラメみたいなもの?)や水あめのようなものか。
南蛮貿易により砂糖はさらに浸透したが、砂糖菓子のような砂糖の広まりは江戸時代の鎖国以後の長崎によるオランダ交易まで待たねばならなかったろう。江戸時代も和菓子の開発が進んだが、あくまで高級品で、庶民には饅頭、江戸の富裕層には羊羹などがゴチソウだった。

庶民はもちろん、雑炊。たまに菜飯など水分が少ない糧飯がぜいたく品だったようだ。タンパク質などは川や山から魚や肉が手に入ればゴチソウで。
貨幣経済がこのころは大きく発達したといえど、食事を買うのはごくまれで、ほぼほぼ自給自足であり、ご飯(といっても硬い玄米の強飯が中心)をたくさん食べるのが当時の人々の夢物語だったのだろう。

※南蛮貿易によるコロンブス交換の成果
当時、世界はアメリカ大陸など新大陸の発見により、これまでにない食材を入手した。それが、トウガラシ、トウモロコシ、ラッカセイ、ジャガイモ、カボチャ、サツマイモ、トマト、さらにはタバコなどもだ。
日本にも戦国~安土桃山時代から、喫煙の習慣が流入する。さらにトウガラシは日本を経て朝鮮(秀吉の朝鮮出兵)にも輸出された。これまでの朝鮮のキムチはただの漬け物であったが、今のようなトウガラシによる赤いキムチはこの日本のトウガラシの流入の後にできたものだ。
また、サツマイモは江戸時代の享保の改革にて、青木昆陽による研究の成果で、ききん対策で各地に栽培が奨励され、ききん以外でも米ができない山間部はイモにより食生活が支えられていた。
しかし、悪いものも輸入された。それが梅毒などの伝染病である。おもに性接触によって拡大する梅毒は、当時の有名人としては多くの戦国大名(加藤清正・結城秀康・前田利長・浅野幸長など)が朝鮮出兵などで梅毒による死因という例も見られるほか、男性ばかりの江戸の町にも、遊女や男性の多くが梅毒にかかり、一般庶民への感染率は50%程度だったといわれる。

飲み物としては茶であろうが、茶も庶民にとってはまだ贅沢だっただろう。
水も井戸が掘れて湧き水が出れば良いのだが、今のような水道設備が整備されてないため(水道の記事は↓にて)、川や池など水場からわざわざ汲んできたり。水を外から汲んで貯めておくのは、今でも発展途上国では重労働であるが、江戸時代まで近くに玉川上水などから地下の水道管を通って井戸を通し家には水がめが置かれ、そこで井戸から汲んできた水を貯めていた。

(↑また、上のように「ダムの湖底に沈んだ村」の記事を筆者は多数あげています。よかったら読んでみてください。)

東京都水道歴史館より。井戸。
水瓶。
井戸の水くみ。

井戸にはたまに上水から川魚などが流れ込んできたなど、今よりも清潔でなく、水にあたる(細菌によりお腹を壊すなど)は普通にあった。または江戸の長屋の近くまで、砂糖水を売りに来た人々もいた。

まあ、それくらいほとんどは水やお湯(白湯)であり、茶は江戸時代の最初ぐらいまでは高級品だっただろう。飲み物事情はこれくらいか。

江戸時代…和食文化の発展。

江戸時代は戦争がない泰平の時代、食文化も大きく発達した。
和食文化といえば、てんぷら、寿司、そば、田楽(おでんのもとになった、豆腐やこんにゃくなどに味噌をつけて食べる)などだろう。
江戸の人々のほとんどは、地方から出稼ぎにきた労働者、特に男性が多かったため、料理するのも面倒な彼らのために外食文化も発達した。
特に、屋台。江戸時代は火災の延焼対策や避難場所として隅田川の周りには住居を建てなかったため、普段は屋台が立ち並んだ。

もとは、米の発酵食である「なれ鮓」で、有名なのは「鮒(ふな)ずし」である。鮒ずしは、鮒の体にご飯を入れて、ご飯の中に大量に入れて発酵される。
筆者が食べた、鮒ずし。
江戸の人々は労働の傍らに食事をしたので、手っ取り早いのが好き。したがって、発酵までまたず酢をかけて酸味(本当は乳酸発酵)を出したのが寿司の始まりといわれる。
当時の寿司一貫はおにぎりサイズ。これを二つに切った名残が一貫ふたつ。
江戸は米のとぎ汁など栄養価が高い排水を流したため、江戸湾の魚介類も多いなった。これも江戸前寿司発達の原因である。
利根川など江戸の多数の河川に、当時は森林も多く栄養分が流れたほか、これも栄養分の高い人間の排水により、淡水魚のうなぎなども多かったのだろう。
江戸東京博物館より。

江戸の人々は、武士より庶民(むしろ職人や商人)のほうが食事は豪華だったのかもしれない。といっても、朝はご飯に漬け物に汁物。
昼には外で働いたついでに、帰宅して朝ごはんの残りや弁当もあったろうが、料亭や居酒屋や屋台で食事を楽しんだ。
夜は、朝ごはんの残りなど。基本は粗末だが、江戸は地方から年貢米が集まり取引されるので、基本は米が多く、一日5合の大量の米を食べていた。

魚があるとゴチソウですね。
贅沢をこらした江戸の花見弁当。
飛鳥山博物館より。飛鳥山は花見の名所だったため、花見弁当の展示あり。おいしそう!

ただ、精米技術が発達し、白米が中心になると、甘くやわらかくなるが、ビタミンB1不足で脚気になる人が多かった。脚気は江戸煩いといわれ、当時は江戸にて白米を食べると発病する原因がわからず「江戸にいるとかかる病気(伝染病)」と思われた。精米技術により、糠が大量に手に入り、糠味噌やぬか漬けが広まった。武士も質素である。農民の年貢によって支えられた彼らは、基本贅沢はできず、栄養価が高い豆腐(豆腐百珍という豆腐料理本がベストセラーに)や、納豆や野菜などを入れたみそ汁にいろいろ入れて贅沢していた。

ただ江戸から離れると、白米など米は贅沢品で。

米がとれる埼玉の戸田でさえ、こんな感じ。
米がとれないところは、うどん中心。
山間部のようす。
捕った魚は、囲炉裏で焼いて、干したり燻したりする「弁慶」に刺す。
米がとれた豊かな土地でも、基本一汁一菜。#足立区立郷土資料館より。
豪華な農家のハレの食事。赤飯、野菜の煮しめ、野菜の天ぷら、甘い煮豆やぼたもち。

大正~昭和時代…ハイカラな洋食へ。

これまで、囲炉裏など囲み、箱膳の上に皿をのせ、座って食べていたが、やがてちゃぶ台を囲み食べるようになる。

下が箱膳。食器はそれぞれの箱に入れ、食べるときは箱の上に食器を並べ、食べ終わったら茶や湯を入れ食器をきれいにして、箱の中にしまう。江戸時代はテーブルがなく、これが一般的。
都市部ではコロッケなどの洋食も流行。
まあ、こんなおかずが普通です。
食とくらしの小さな博物館より。

現在は、食生活の洋風化が進み、日本の食料自給率の低下と和食文化とくに地方の食文化が廃れはじめているぶん、日本に居れば様々な国の食事を楽しむこともできます。
一方で、栄養過多による生活習慣病、または外食や中食(既製品を購入したものを食べる)、家族団らんや仲間と食事を楽しむより個食や絶食も増えている。

食に興味がない人もいるだろうが、ほんらいは「食べる」という行為は、人間が栄養維持のために行うことだけではなく、人生を楽しむという団らんや文化の側面もある。
食事は、長い歴史を経て、大いに変化してきた。昔の食べ物を現代の人が食べ、はたしてなじめるものかもわからない。(昔と今では言語も容姿も生活スタイル考え方もちがう)
しかし、その違いや共通点を探ることで、これからの食に対する考え方も見出していきたいものである。

番外編…給食。

給食の始まりは、山形県の私立愛忠小学校で1889年に弁当を持ってこれない児童に無料で配布したことだ。最初はおにぎりと焼き魚と漬け物の簡素なもの。やがて1920年代に児童の栄養不足解消の改善のため保健事業として実施する学校が増え、1929年には204校で実施されていた。
しかし1940年に戦争により中止する学校が増え、1944年には完全に途絶えた。
戦後、アメリカや世界中の児童への食料援助のために再開。

さいたま市歴史と民俗の博物館より。


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