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池袋の光と闇

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池袋東口。西武池袋線がのび、西武百貨店が君臨する。
一方、西口が東武東上線、東武百貨店が君臨する。
「不思議な不思議な池袋 東が西武で西東武♪」のビックカメラ本店は池袋にあります。

3大副都心であり、新宿と渋谷に次ぐ、世界3位の一日当たり平均乗降者数をほこる池袋駅。
西武池袋線沿いに引っ越し、休日どこに行く宛も無いときは池袋をウロウロしていた。
しかし、サンシャインにもパルコにも何も買い物するものがない、当時はほとんど何の趣味もなかったため、どこに行けば良いかわからず、ただウロウロして「何もないし、金と時間の無駄だった」と思うことも多かった。

やがて漫画に再びハマりはじめ、仕事で都内に向かう時に必ず中継する池袋であったが、西口の芳林堂コミックプラザ(2016年閉店)で物色するのが趣味になり。お気に入りのコミックを買い、居酒屋で飲みながら読み、サウナで泊まることが楽しみになった。

サウナは宿泊もできた。やがて連泊することもあり、仕事で帰るのがメンドクサイときは何日も泊まることもあった。
そんな僕にとり、池袋は庭みたいなもんだ。

池袋の思い出(ごく一部)

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居酒屋がならぶロマンス通りでキャッチに追いかけられたこともあった。
また、キャッチを無視した挙句、あまりにもうるさいからコンビニに入ろうとしたら「あああああああーーーーー!!!」と叫ばれ、震えながら見たら下顎突き出され白目剥かれバカにされたような顔されて。
そしたらワラワラ仲間が来て包囲されたので僕は必死に逃げて。腹が立って110番通報、交番になだれこみ説明、都庁や都議会にメールしてキャッチの規制を訴えた。(以降、ちょっとパトロールが増えたような気はする)

池袋駅を早朝歩くと、ここは深夜の延長なのでいろいろあった。
突然、パンイチの大学生がコンビニから駆け出していったとか。
パンイチの若い男が西口駅内改札目の前で寝ていたり。
初めて人が逮捕されたのを見たのも池袋西口だ。

ホームレスの〇糞にも出会った。東口の横断歩道、中央分離帯の植え込みあたり、交通整理のバイトの人の傍らで、ホームレスが悲しそうに座っている。
下半身をよく見たら、ズボンが下がっており(以下省略  はじめて他人の脱〇を見てしまった。

外国人に理不尽に怒鳴られたことがある。僕の顔つきが悪かったのか(当時僕は自分とすべての世界の崩壊を思いながら池袋を歩いていた)、目が合った外国人が突然、僕に怒鳴りかけてきた。西口の富士そばとマツモトキヨシの合間のコインロッカー。「何言っているかわからない!」と言いながら僕は西口交番のほうを歩いて行ったらいなくなった。

そして、脱法ハーブ暴走運転事件。2014年6月24日午後7時。
僕はこのとき芳林堂コミックプラザで物色し、西口駅あたりを歩いていた。人だかり。しかし、池袋ではよくあること。そんなことより僕は早く居酒屋に腰を下ろし買ったコミックを読むのを楽しみにしていた。
ニュースを見てビックリ。
脱法ハーブを吸引し運転された車が暴走。西口のUFJ銀行の公衆電話に激突し、中国人女性が死亡。
この事件により、脱法ハーブという呼称が「危険ドラッグ」となった。

筆者撮影。暴走車は黄色に封鎖されている公衆電話に突っ込んだ。

さらに「サクラホテル銃撃事件」
このとき僕は近くのサウナに泊まっており、数時間前に、赤札堂てスーパーで買い物するためにサクラホテル目の前を通っている。
2014年7月6日午後10時に中国人男性が突然、女性をサクラホテル内で銃殺。
僕はその数10m先のサウナで飲酒をしてくつろいでいた。

2014年の池袋はいろいろありすぎだな。

そんな池袋の西口のすぐとなり北口はチャイナタウンとなっている。

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割と不法移民が多く、割と違法なことが横行していると聞いている。
そんな国際色豊か、学生やOLやサラリーマンから暴力団やホームレスまで多様な職種、カオスな池袋。今回はわたくしのしばらく家でもあったこの池袋の歴史もふくめてご案内いたします。

池袋は巣鴨村へ。

武蔵国豊嶋郡池袋村。地名はすでに戦国時代の古文書に見つかっている。もともとは現在の駅西口(ホテルメトロポリタン一帯)に池があり、「丸池(袋池)と呼ばれていたことから。

駅西口からすぐ、東京芸術劇場とホテルメトロポリタンのあたりに丸池のあと「元池袋史跡公園」。

もちろん、当時は「東京の繁華街・三大副都心の1つ」という面影は一切ない。ただただ原野が広がる土地で、夜になると追いはぎや辻斬りが相次いだという。

東口駅前のパルコに向かい、西口と結ぶ地下道「ウィロード」を渡らずまっすぐ行くと「駅前公園」、ここに四面塔稲荷大明神がある。ここに、江戸時代には辻斬りや追いはぎが相次ぎ、特に享保7年の夏に一晩に17人の辻斬りがあったため、雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺が供養塔を建てた。

池袋が発達するきっかけになった「池袋駅」

明治14(1881)年に成立した日本初の私鉄である「日本鉄道」(1872年高島嘉右衛門が北海道開拓と青森~東京を結ぶ鉄道建設を政府に求めるが却下されるが、岩倉具視ら華族の協力を得て設立)。すでに政府は1872年に新橋-横浜間に日本初の鉄道を開通(今の東海道線)。

筆者による雑地図。日本鉄道の品川線と、官営の東海道線。

日本鉄道は1883年に上野-前橋間を開業。
さらに同年、上野-前橋間の途中にある赤羽から、赤羽-品川駅を結ぶ品川線をつくった(現在の埼京線と山手線となる)。
ただこの路線に当初、池袋駅は作られなかった。
日本鉄道は当時、品川線を田端駅に延長し東北本線を結び、横浜へ福島の常磐炭鉱の石炭を品川を経て結ぼうとしていた。

その品川線を分岐して田端へ結ぶルートの起点となる「候補地」を選ぶ。
最初は目白に伸ばそうとしたが、住民の反対と起伏の多い地形の規制により却下。
そのため、当時は何もなかったこの「池袋」が選ばれた。

1903年完成。これが今や世界3位の乗降者数の駅になろうとは…
もし池袋でなく目白案を押し通していれば…?
池袋駅をつくることで、ここから開発がはじまる!
それにしても、当初の駅。最初は乗降者も少なかったことだろう。

しかし、池袋が繁華街として大きく発達したのは戦後である。
それまでは池袋より大塚が繁華街であり、デパート(白木屋百貨店)や花街があり、戦前は買い物するなら大塚の白木屋か上野松坂屋か新宿三越か。夜の街なら大塚か神楽坂か、だったらしい。今でも巣鴨村の名残「巣鴨」という地名が大塚駅周辺に見られる。(風俗街でも有名な大塚だが、三業通りは花柳界としての名残も見られる)

つまり、池袋は昔は巣鴨村であり、明治28(1895)年には佃島にあった「石川島監獄」が移され巣鴨監獄(巣鴨刑務所)が作られるぐらいだった。
池袋駅ができても、周辺は原野が目立ち、雑司ヶ谷村鬼子母神法明寺や、1909年に豊島師範学校(1946年に小金井市にうつり東京学芸大学へ、現在の池袋西口公園と東京芸術劇場)、同年さらにウィリアム牧師が築地につくった立教学校(のちの立教大学)が移り、池袋は学問の町としても少しずつ発展した。
さらには1914(大正3)年に東上鉄道(東京と上州を結ぶ今の東武東上線)と1915年に武蔵野鉄道(今の西武池袋線)がつながるが、あくまで池袋は市電と乗り入れる場所、繁華街の巣鴨と神田の通過点であり、繁華街としての発展は遅れていった。

池袋の町の発達

大正11(1922)年に池袋東口に池袋武蔵野館という映画館ができ、松竹シネマによる新作映画が封切し人気を博していった。

しかし、やはり池袋や新宿・渋谷などの町の発達と整備が進んだきっかけは、大正12(1923)年の関東大震災だ。
これまで東京の東側である浅草周辺の下町が東京最大の繁華街だったが、ここから地盤の強い山手台地や武蔵野台地などの西側に住民の大移動がはじまっていく。
これまで東京の西の多摩や、埼玉は人はあまり住んでいなかったが、ここから、東京と埼玉は大きな「様変わり」を遂げて行く!
多くの人々が武蔵野鉄道と東上鉄道などを利用し、郊外へと移動していった。埼玉や西武・多摩地域のベッドタウン化が進み、池袋駅の利用客が急増していく

また、道路も関東大震災復興の一環で、昭和6(1931)年には浅草や下町のある台東区や墨田区から、池袋のある豊島区と北区や新宿区・渋谷区など東京を囲む形で結ばれた明治通りが池袋東口に開通。
1935年には東口に菊屋デパート(現在の西武百貨店)が完成。
池袋駅周辺はやがて繁華街として発達していく。

さらに、池袋を大きく変えた理由が、太平洋戦争だ。
東京大空襲は、明治時代以降に町工場などが集中していた下町あたりに集中していた。

有名な東京大空襲の写真。左手側が隅田川、今の両国国技館やスカイツリーの付近。
東京大空襲の被害を示す地図。東側に集中している!

先妻の被害が比較的小さかったことや、多くの人が集まる物流の拠点として池袋が発達していたことから、埼玉の農家が運んできた野菜などが池袋に運ばれるようになり、池袋はいわゆる闇市がならぶようになった

豊島区立郷土資料館には駅前にあった闇市の立派な模型が展示されています!
写真は全体の俯瞰ならよいようで、展示品をクローズアップはできないため、現地にてお楽しみください!(この画像は豊島区HPより)
郷土資料館の俯瞰。撮影許可が必要。
闇市のジオラマが展示されてる場所。

池袋の繁華街化はここからはじまる。
買い物客の増加、それにこたえるための商品や飲み屋、風俗街などなど…様々な店舗の増加。
1949年には東口にホームがある西武線による西武百貨店、さらに1950年に西口に東横百貨店(1962年に東武百貨店に吸収される、西口に東武百貨店)ができ、百貨店戦争状態となる。
1969年に池袋パルコが開店、1970年には太平洋戦争後のGHQによる戦争責任者の処刑が行われた巣鴨プリズン(巣鴨監獄→巣鴨拘置所)の跡に、当時アジア最高層のビルであるサンシャインがつくられる。
池袋は有名デパートを中心に、様々な店舗がつくられ、多くの人々の盛り場として発展していった。

未来の池袋へ

豊島区が目指す、「国際アート・カルチャー都市構想」。
立教大学のある池袋西口には、1930年代に旧長崎町(現在の要町)にかけて、美術家が多く集う借家群がありました。

竹やぶが広がる長崎周辺に点在していたアトリエ村がつくられた。外装はモダンだが、3~4畳半くらいでせまく、家賃13~22円くらいで安い。

共同のトイレや台所、共同のモデルや創作、芸術論を戦わせたりともに食事や酒をともにしたり。画家や彫刻家だけでなく、詩人や新人俳優、立教大学の学生なども多くいた。

また、椎名町周辺には日本の漫画界を開拓した手塚治虫や石ノ森章太郎など漫画家が集った「ときわ荘」もあり、池袋周辺は文化活動の中心地でもあった。

筆者が度々おとずれるトキワ荘のあとは、当時の漫画家のアパートの様子が復元!
漫画の企画展も。
ときわ荘の町の通りある「お休み処」にも、さまざまな展示が。
トキワ荘ミュージアムとは別に、この「お休み処」にも寺田ヒロオ先生の部屋の復元。
ほか、トキワ荘通りにはいろんな聖地が。

池袋東口サンシャイン周辺は、ミュージカルや伝統芸能を公演するホールや、アニメ、サブカルチャーを楽しめる空間など個性の異なる8つの劇場を備える新複合商業施設である「ハレザ池袋」や、アニメイト本店などアニメ関係の店舗が立ち並び特に女性の客層が多い「乙女ロード」もある。


池袋はこのような文化やサブカルチャーを大いに楽しめる街へと発展しつつある。

しかしながら、北口のチャイナタウン。または飲み屋街など。
中国マフィアや違法移民、中国資本の土地や企業の買収。
それに関連する暴力団や、悪質なキャッチ、ホストや風俗関係など水商売に関するぼったくりの仕事や金銭関係のトラブル。
新宿の歌舞伎町に並ぶような夜の町や裏側にある様々な問題点も抱えている。





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