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わが領土

先日、虎ノ門にある「領土主権展示室」へ見学に行ってきました。(展示品はホームページで誰でもバーチャル展示で見れます!)

これらの資料、無料です!

ていねいな対応ぶり、分厚い冊子の資料が無料で手に取ると係員の人が手提げを持ってきてくれた。帰ろうとすると、お土産も持ってきてくれた(僕は無口な人間で何もしていないのに、向こうの方々がさりげなく来てくれて)。
ポストイットとボールペンとクリアファイル…。僕はポストイットを選んだ。

はじめに(いきなり問題を出してすいません!)

突然ですが、問題です。3問ほど楽しんでください。
日本で最も大きな島はなんでしょう。




答えは、本州。世界の島の面積でも7位の広さです。日本自体が島で構成されてます。次に北海道、九州、四国、そして択捉島、国後島。しかし残念ながら日本最北端である択捉島と国後島はロシアに占領されています。

次の問題。日本の島の数はいくつでしょう。




答えは、6852個。約7000ですね。
で、ご存じでしょうか。実はこのうち、6432個は無人島なのです。


人が住めるが生活や交通が不便な島もあるでしょうし、住めない島(小さすぎるなど)もあるでしょう。
しかしながら、このような島がとても大事だという話をしていきます。

中心のフタをあけると、ちっちゃな北小島や東小島が見られます。

最後の問題です。
日本の一番南の都道府県はどこでしょうか。

ちなみに、沖縄県ではありませんよ。




答えは、東京都。小笠原諸島の南端にある「沖ノ鳥島」です。

実は沖ノ鳥島は人も住めないちっちゃな島。写真にある北小島の上に人は立てないかも。
日本政府はこの島を守るため、235億もかけて、直径50mのコンクリートと鉄製の消波ブロックなどを作りました。
なぜ、この島が大事なのでしょうか。
実は、この島が日本のものであれば、島の海岸から半径約370kmもの広大な「排他的経済水域」というものが獲得できます。

日本は国土面積がたったの世界61位。200ものある国の中では大きい方かもしれません。しかし、排他的経済水域の広さは世界6位!
排他的経済水域は、その海域にある水産資源や鉱産資源などを自国が占有できる広さ。つまり、日本は豊かな海に支えられているわけです。

この経済水域、すなわち「自国の海」はどのように獲得できたか。
もちろん、領土を守ることで獲得できます。
しかし、もし、まわりの国が勝手に「この土地は俺の土地!だからまわりの海も俺の海!」と言えたらどうなるか。もう世界は大混乱ですね。
まわりのご近所さんが、勝手に自分ちのものを「うちのもの!」と言い出したら争いのタネになる。そんなこと許されませんね。
しかし、平気でこういうことを言ってくる国があるのですよ。
ロシア、韓国、中国。日本の周りの国々です。
では、ひどい国なのでしょうか。けどみなさん、こういうことを言い出すご近所さん、きっといるかもしれません。自分の家、財産をどう守っていくかは、私たちの大きな課題ですね。

1,北方領土問題

すでに江戸時代には北方4島に渡航する日本人が多くいました。
江戸幕府は1644年には「エトホロ(択捉)島」「クナシリ島」などの地名が明記された地図を編纂させてます(正保御国絵図)。松前藩も自藩領として認識して統治してました。
ロシアは18世紀(1700年代)に千島列島の探検をはじめます。幕府は1798年に「大日本恵登呂府」という標柱を立て日本領であることを示しています。

無主地先占(先占の法理)…他国の実効支配がおよんでいない土地は発見した国が領土として編入できる。これは国際法で認められている原則である。

1855年2月7日(この日を北方領土の日としている)、ロシア特派大使プチャーチンと、江戸幕府の日本全権川路聖謨と筒井政憲が下田で交渉。得撫島より北(千島列島)がロシア領で、択捉島より南が日本領であることを確認する。

幕末史に興味がある人は川路聖謨様は有名ですね。
一方で筒井政憲様はあまり知られてないような。お墓は、以前、「新宿散歩記事」を書く際に取材しました。この筒井政憲様の御先祖様は筒井順慶。筒井家の御子孫様がnoteにて「自分は何者なのか」ルーツを探す旅をしていまして、その記事からも大きな影響を受けました。https://note.com/mononofu_tsubaki/n/nd2683d2e02d8「自分は何者なのか」先祖をたどる旅をなさってます。僕はふだん散歩記事を書いてますが、私たちが住む日本の土地は何かを探ることも大好きですが、「私たちの御先祖様は何者なのか」を探ることもとても興味深いです。

1875年、樺太千島交換条約。日本は千島列島を領有し、ロシアの樺太領有を認める。

読者にとり、体感、コロコロと、ポイポイと領土が取引されてるように思えますが、この条約の背景にあるわが祖先たちの目まぐるしい考え、はげしい議論、多くの戦いがあったことも是非学び考えたいものです。 

しかしながら、太平洋戦争にて。日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受け入れ無条件降伏したことを連合国に通告した後に、ソ連となったロシアは南樺太と北方4島に軍事侵攻。
1941年に日ソ中立条約を結び、ソ連は日本に侵攻しない約束をしていたのに、だ。この条約は1946年4月までは有効(1年前までに破棄の通告をしないかぎり追加で5年間延長されるしくみ)なのに、45年4月に一方的に破棄を通告。
ソ連は1945年のヤルタ協定を根拠に侵攻しているが、日本は同協定に参加していないため、日本には適用されないきまりなのに、だ。

樺太の中心地・豊原では病院など様々な施設で白旗をかかげ降伏を示していた。本来、その降伏を受け入れ攻撃してはならないはずだ。
しかし、ソ連軍は空襲による無差別爆撃で殲滅を図る。大泊には白旗を掲げた3隻の疎開船に多くの日本人女性や赤子を含む幼子たちが避難しようとした。しかしソ連軍は潜水艦からその疎開船をとらえ、魚雷をうちこみ、人々を機関銃で殲滅しようとし1700名の犠牲を出した。
戦争では民間人を攻撃してはいけないきまりなのだが、戦勝国の多くがこのきまりを公然と破っていたのは、今後の戦争の在り方を大きく変えた。
ソ連軍の軍事行動は明らかに北海道占領を目的としていた。
しかし、千島列島北端の占守島における樋口季一郎中将以下多くの日本軍や民間人の抵抗で、この計画を断念させた。

1951年、太平洋戦争の講和条約であるサンフランシスコ平和条約を締結。ここで日本は明治時代以降に画定した領土のうち、千島列島と南樺太を放棄する。ソ連側はこの条約を北方4島までを支配している根拠にしているが、まず、ここでの「千島列島」は、先述の日魯通好条約であるように、北方4島をふくまないのはあきらかだ。
次に、ソ連はこの条約を結んでないために根拠にすることはできない。
さらに、千島列島を放棄したからといって、ソ連が占領する根拠はない。

(ちなみに、これらの領土は暴力で一方的に獲得したわけでなく、正式に話し合い条約を締結することで獲得した領土です。
さらにちなみに、日本政府は条約や国際法などを遵守してきました。
さらに、基本的には軍人も民間人への攻撃はしていない。例外もあるかもだけど。たとえば、日本軍によるアメリカのハワイ真珠湾攻撃も、民間施設ではなく軍事施設のみ正確に攻撃していることは、ハワイのアメリカ側の展示施設でも絶賛しているところです。なお、捕虜も日本では徳島のドイツ捕虜収容所でも手厚くドイツ兵をおもてなししている。一方、ソ連がこの戦いで捕らえた日本軍人はシベリアに抑留され、非人道的ともいえる過酷な生活を強いられている。ここは新宿の平和記念資料館がくわしいのでゼヒ。)

そして1956年の日ソ共同宣言。領土について、ソ連は平和条約を結んだときに、まずは歯舞群島と色丹島を返還することを約束した。
しかし、いまだ平和条約を結ぶにいたっておらず、先の2020年まで首相であった安倍晋三が交渉してきたが、北方4島をロシアと日本の共同で経済開発していくまでに至っている。
なお、1993年の東京宣言(細川護熙当時首相と、エリツィン・ロシア初代大統領)によって、北方領土問題は北方4島の問題であることが確認されている。

北方領土のくらし…日本人はこの島々を開発し、おもに漁業の基地としてさかえてきた。さけ・ます・にしん・すけとうだら・かに・ほたて・こんぶなど。大規模な捕鯨基地でもあり、さけますの養殖事業・缶詰工場などもならび、当時の北海道の23%の水揚げ高をほこっていた。また、鉱業でも鉄・金・銀・硫黄・亜鉛など、現在でも多くの資源が開発できる可能性に満ちていました。

2,竹島

竹島の利用を国家として認めたのは17世紀ごろ。江戸幕府は1618年に米子(今の鳥取県)の町人に鬱陵島、のちに竹島の渡航を許可したことが文書で確認できます。

鬱陵島や竹島では、アシカ(毛皮や油が主な目的)、アワビ、スギや竹、まれにニンニクやタケシマユリ(花)も持ち帰り、特に大量のアワビが幕府に献上されていました。明治時代になると1905年に政府が竹島を島根県に編入する閣議決定がなされました。この間、朝鮮からは何の反応もありませんでした。基本的にはこの態度は黙認とされてしまいます。

現在、竹島を自国領とする韓国側の根拠は、古文書にある朝鮮の島である「于山島」を竹島としてますが、たとえば「世宗実録地理誌(1454年)」では「于山国は鬱陵島ともいう」「新増東国輿地勝覧(1531年)」では「于山島と鬱陵島は1つの島」とあり、竹島である根拠となりません。
また、朝鮮の他の文献にある「于山島」の記録は、竹島の実情と見合うものではなく、つまり韓国側が主張する、竹島が韓国領である根拠はいまだ見つかっていません。

敗戦した日本はポツダム宣言にて「日本の主権をもつ領土は本州・北海道・九州・四国とわれらの決定する島々」とあるため、この島々をどうするかあいまいでした。
サンフランシスコ平和条約の案で竹島は日本の領土であることが起草されました。
韓国側は1951年にアメリカのアチソン国務長官へ「竹島は韓国領である」ことを要請した文書を送りました。
しかしアメリカ側は「朝鮮の一部として取り扱われたことが決してない」「かつて朝鮮側が領有権を主張したことが見られない」として拒否(ラスク書簡)。

しかし、直後の1951年。韓国初代大統領の李承晩によって「海洋主権宣言」が発表される(李承晩ライン)。
アメリカはこれに対して「これを認めるならば、どの国でも一方的に公海を領海に転換することが可能になる」と抗議。
さらに1953年に日本の海上保安庁の巡視船が韓国漁船から数十発の銃撃を受ける事件も発生。
のち、1965年の日韓基本条約で韓国と日本は国交を樹立し、日韓漁業協定も結んだが、現在竹島は韓国軍による施設(ヘリポートなど)の建設も進み、一方的に占拠されている。

3,尖閣諸島

もとは無人島であった尖閣諸島。古くから東シナ海を行き来する船に航路標識として利用され、琉球王国の資料や絵図に描かれ、1819年には琉球王族の上陸記録、1859年には琉球王国の人物が観察した記録が残されていました。

1879年に琉球を沖縄県として日本政府は編入。沖縄県は1893年に尖閣諸島に日本領だと示す「国標」を建設することを要請し、1895年に建設される。そして尖閣諸島も「どこの国からも統治されたことがない」ことを確認し1895年に編入しました。


尖閣諸島には古賀辰四郎によって鰹節工場がつくられ、その周辺海域の漁業も活発でした。

中国側の尖閣諸島領有の根拠として「明や清の使節が航路標識として利用した」「15世紀から18世紀にかけて尖閣諸島を発見し命名した」「古地図で中国の海域の中に描かれている」とあるが、主要を裏付ける根拠もないうえ、それだけでは領有権の根拠とはならない。
さらに、1895年の日本領有後に、尖閣諸島における日本人の活動は活発になったが、その間に中国側の異議は特になかった。中国側の領有根拠のもう1つが「尖閣諸島は台湾の一部だ」というのがあるが、1895年の日清戦争の下関条約の交渉の前にすでに尖閣諸島を編入しており、下関条約の交渉記録からも台湾付属諸島に尖閣諸島がふくまれていないのは明らかだ。

1952年、日本は敗戦しサンフランシスコ平和条約を結び、この条約が発効され、尖閣諸島をふくむ沖縄の島々はアメリカの統治下となった。
琉球列島米国民政府の布令等の文書にも琉球の範囲に尖閣諸島が入っているのが確認できる。
米国軍政府の活動報告第一号にも琉球列島の範囲内に「SENKAKU-GUNTOU」と書かれている。

そして1971年に沖縄返還協定の署名がおこなれていくが、ここでも日本に返還される地域として尖閣諸島が入っている。
尖閣諸島においても、アメリカ政府は1968年に不法侵入者への対策として入域許可が必要である警告文を書いた看板を立てる。
1969年にも石垣市が行政標柱と標板(八重山尖閣群島魚釣島)を建設。

しかし1971年に中国政府は外交部声明を発表。
「沖縄返還協定において釣魚島などの島嶼を日本への返還地域に組み入れているが、これは中国の領土と主権の侵犯である…釣魚島などの島嶼ははやくも明代に中国の海上防衛区域の中にふくまれている…それはつまり台湾付属の島であった…日本政府は台湾付属諸島を不平等条約である下関条約でかすめとったのだ」

おそらく突然中国が尖閣諸島の領有宣言を発表した原因が、1969年に国連アジア極東経済委員会が「石油や天然ガスの埋蔵の可能性が最も高い地域が、台湾と日本の大陸棚にある」と発表したことによる

現在、尖閣諸島の領海内に、無数の中国船が毎日のように侵入していることが、ニュースを調べると確認できる。このニュースは本来は日々報道しないといけないと思うのだが、残念ながら中国の工作活動が効いているのか、政治家や企業や報道が中国を忖度してか、このニュースについてはあまり報道されない。

海上保安庁のデータ

以前、バッファの記事を書いた。中国政府は太平洋進出のために南西諸島を勢力圏にすることを宣言しているのだ。

最後に

宍戸刑馬という長州藩の幕末の志士を知ってますか。
別名を「高杉晋作」とも言います。あ、伊藤博文が後に語ったフィクションかもしれないエピソードです。
長州藩とイギリスが戦った馬関(下関)戦争で、勝利したイギリスは長州藩に領土「彦島」の割譲を提案しました。
しかし、香港のイギリス占領を見てきた高杉は、それを拒否するために高烏帽子と白装束という異様な出で立ちで出席します。
そして、日本の土地は神々と国民が守ってきたものを説くために「古事記」の暗唱をしたわけです。
同行していた有名なイギリスの通訳アーネスト・サトウは、宍戸を「魔王のようであった」と日記に記録しているとか。彦島割譲は有耶無耶になったが、もしここをイギリスが占領すればどうなったろうか。

香港はアヘン戦争(1840~42年)にイギリスに占領され、返還されたのは1997年です。150年も取られていたわけですね。
領土は一度とられると、戦争を起こさない限り返還は厳しいです。
さらに、その土地が他民族の故郷ともなると。また新しい民族問題も生まれてしまいます。

僕は、北方領土問題は奇跡でもない限り、交渉だけでは厳しいと悲観的です。多くのロシア人が住んでおり、土地に愛着も進んでいることでしょう。
だからこそ、奪われないようにしないといけません。
ある日突然、「中国軍人(民間人)が尖閣諸島に上陸し、中国国旗を立てた」という報道があるかもしれない。

これを聞いて「へえ。まあ遠い島だしな」と思うのか。
それとも「中国軍が沖縄や九州に上陸することがありえる!」と大きな危機感を抱くのか。

聞いた話だが、ウクライナへのロシアの侵攻において、ある昼のワイドショーで女性コメンテーターが在日ウクライナ人に対して「ちょっと聞きたいけど、なぜそんなにロシアが嫌いでロシアになるのが嫌なのか」と質問する日本人がいたと。
「なんで日本人は中国を警戒するの?中国になってもいいじゃない?」て思う日本人も多いのかな。
旧ソ連時代における、ヨシフ・スターリンが行ったジェノサイド(民族殲滅)ともいえる「ホロドモール」。人為的な飢饉で、ウクライナ人を強制移住させ、家畜や農地を奪われ、400万人から1450万人の死者が出たうえ、600万以上の出生が抑制された。
中国のチベット・ウクライナにおけるジェノサイドともいえる動き、ソ連時代に行ったロシアたちの虐殺や搾取。

おまけ。私たちはなぜ生まれたのか。

当然であるが、この世界と出会うためである。最初に親、家族。そして故郷、そして祖国。

私たちは誰もが、祖国によって育まれた。
特に我が祖国・日本は、長い歴史と多様な自然に恵まれており、地域ごとの豊かな文化や高い科学技術、多くの芸術や大衆文化に恵まれ、世界の国々の人々も憧れるほどだ。
教育や医療など社会保障にも力を入れ、長い平和と保たれた秩序、人々は倫理観や道徳観も高く、有史以来人々の上に立ってきた天皇陛下は国民の幸せを神に祈り質素ながら品格があり多くの人々の尊敬を集めている。
もちろんまだまだ未熟で歪んでいるところもあるが、多くの国民が改善しようと努力している。

しかしだ。国が亡ぶこともある。
土地や人が残れど、支配者が変わることで、連綿と続いてきた歴史や文化、言語、記録や記憶さえも、この世から消え去ることもあるのだ。

それは少しずつ、または突然かも知れない。
変革され新しい価値ができれば良い。
だが、もちろんこと、他国から殲滅され、人々は虐殺され、記録はすべて燃やされ、言語や文字も変えられ、その国に隷属と成り果てることも充分ありえる。これは世界史を調べれば多く見つかること。

私たちはこれまでの御先祖様たちが受け継いできた意思を尊重し、そして子供たちの世代にしっかり残していく責任があるだろう。


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