《私の主張》この国の全政治家は、今こそ己の役割と使命を知れ(その2)

今回は、表記テーマの下での第2回目です。
第1回目では、私は、この国全体が、あるいは国民が大災難に遭ったとき、また遭っているとき、この国の政府(正確には中央政府)が打ち出す救済対策というのは、いつも決まって、起っていることの全貌を把握することもないままの、したがって戦略も優先順位も考えようとはしない中での場当たり的なもので、後れに後れた内容のものに過ぎずない。その状態は、「初動体制の後れ」などと言って済まされるような性格のものではなく、事実上無政府状態に近いものだ、と述べて来ました。
さらにその結果として、いたずらに犠牲者を増やし、悲惨な状態を長引かせ、被害者の苦しみをも長引かせ、その間、助かる命も失われて来てしまった、と述べて来ました。

そして私は、そうなるのは必然で、この日本という国の統治体制には重大な欠陥があるからで、その欠陥とそうした欠陥を抱えるようになった理由について、私たち国民のすべては主権者として是非とも知っておかねばならない、と記すと共に、そのことを知っておくことは、自分自身と国家と社会に対する義務でもある、とも指摘して来ました。

以上が第1回目の要点です。
では、その統治体制上の欠陥とは何か

ひとことで言えば、この日本という国は、今のところ、本物の政府というものは存在せず、また本物の首相も存在せず、したがって本物の国家にもなってもいない、ということに尽きます。
この事実は、この日本という国の民である私たちの安全と無事が守られる上で、何にも増して、最高度に重大で深刻なことなのです。

しかしこのことを明確に理解するのには、その前に、次の幾つかの重要な政治的概念をしっかりと理解しておかねばなりません。

この文章を読んで下さる皆さんに問います。
そもそも政治とは、統治とは、権力とは、共同体とは、政治家とは、役人とは、選挙とは、政治的代表とは、民主主義とは、主権者とは、内閣とは、閣僚とは、独裁とは、そして、上記の政府首相そして国家とは、また国家と国との違いとは何だと思いますか。

これらはどれも、日頃、ニュースや政治家の話などでしょっちゅう耳にしている言葉です。そしてこれらは、どれも、よく考えていただけばすぐにも判るだろうと私は思いますが、私たち国民の幕らしの質の善し悪し、あるいは国民の幸不幸を直接間接に左右する極めて重要な意味を持った言葉です。
そしてこれらはどれも、とれか一つだけを知っていただけではほとんど何の意味もなく、すべてを一式揃って、しかも互いに関連づけて知っていて初めて自分にとって役に立ち、現実社会を変える力にもなるものです。

では、皆さんは、これらの言葉の意味を即座に説明できるでしょうか。

私は断言します。
「政治家でさえ、とくにこの国の政治家という政治家は、これらの概念を知らない」と。

ここで私の言う「知らない」は、言葉だけを知っていてもどうしようもなく、その言葉の意味するところを、暖昧にではなく正確に理解し、しかも、それを、いつも、どこででも、その意味していることを実践できなくては知っていることにはならない、という意味で用いています。

実は政治家のそうした状況こそが、今日の日本の現実をつくっているのです
すなわち政治家の怠慢と無知と自己への甘え、そしてそれに因る無責任。
国会や議会の儀式化ないしは茶番劇場化。政府の無力と無能。国民の政治への不信感と無関心。そしてこの国は未だ民主主義も実現し得ず、真の独立国ともなり得ていないという状況。
今、真っ最中のコロナ問題でも次々と露呈されて来ているように、この国の政治家という政治家は、国民の生命と健康、自由と財産すら満足に守りえない、守りうる政策を打ち出せていないといった状況です。

これらの状況に対して最大の責めを負うべきはもちろん政治家です。
なぜなら、彼らは、全員、国民から政治的代表として選ばれることを自ら望んで、そのために自らの公約を掲げ、その公約が国民に支持された結果当選でき、自らの目ざす政治家という社会的役割と使命を負った立場に立ったはずなのですから。

しかし、さらに言うなら、責めを負うべきは彼らだけではない。
私たち国民も
です。
そうした政治家を無批判に、あるいは無思慮に当選させてしまったのは私たち国民なのですから。この事実をも、私たちは、主権者として、つまり「国家の政治のあり方を最終的に決める権利を所持す者」として、決して忘れてはならないのです。

今回の《私の主張》の動機とは、正にこうした私の思いに因るものです。

ところで、政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営みのこと」です(広辞苑第六版)。

私たちがこの日本という国を良くしたいと思うのであれば、この政治というものへの正確な理解こそが、私はすべての出発点だと考えます。そしてその際、もう1つ、どうしても理解しておかねばならない概念があります。
それは、「別々のものをまとめ、管轄すること」(同広辞苑)という意味を持つ統治という概念です。
この意味からも、直ちに思い出されるのは、権力という概念です。

権力は、「他人をおさえつけ支配する力」と説明されています。
このことから、結局のところ、統治をするということは権力を行使する、ということであることが判ります。

では、「誰が」、「何のために」、「誰に対して」統治するのか、統治しうる権限は誰にあるのか、そしてそれは「なぜ」か。
これは、私たち国民が主権者として、一人残らず、是が非でも知っておかねばならない極めて重要な意味を持つ問いです。

「誰が?」から行きましょう。
統治とは、英語で表現するとgovernmentです。
ところが政府もやはりgovernmentです。
このことから判るように、統治するのは政府です。と言うより、政府と統治は同意語と言ってもいいほどです。ちなみに、その政府のことは、日本ではとくに役所とも呼ばれています。

「誰が?」についてはもっと正確に表現しておく必要があります。
それは、政府の中枢である内閣を構成する政治家です。
一見、統治するのは役所だなんて言うと、統治するのは役人なのかと理解しがちですが、それは違います。彼らは、中央政府の役人(官僚)であろうと、地方政府の役人であろうと、あくまでも政治家の統括と指示の下に行動する、国民の利益を最優先にして奉仕する役割を負ったいわば公僕、もっと判りやすい言い方をすると国民のための召使いです。
ただし召使いとは言っても、それは身分上の地位ではなく、あくまでも政府という統治機関における社会的役割の意味においてです。
その意味で役人は「公」のために働く人、すなわち公務員なのです。

「公」とは国民のことであって役人のことではありません。ましてや役所のことでもない。
彼ら役人には、統治する権限も権力もありません
それは私たちの憲法の第15条の第2項に明らかです。この条文、皆さんで確かめてみて下さい。
公僕が、あるいは召使いが主権者あるいは国の主人公である国民に対して、直接、統治する権限を所持し得ることなどあろうはずはないのです。

なお、ここで言う「政治家」とは、国会ないしは地方議会といういわゆる立法機関に属する政治家ではなく、執行機関に属する政治家です。
具体的には、国の中央政府では、内閣を構成する首相と閣僚のことであり、市町村役場ないしは都道府県庁という地方政府では、その長である市町村長であり知事と呼ばれる、いわゆる首長のことです。なお開僚とは首相に任命された、政府内の各府省庁の大臣のことであり、中央政府の中枢である内閣の構成員のことです。

では、「何のために?」そして誰に対して統治する?
それは、国であれ自治体であれ、それらは規模の違いはあっても共に共同体ですが、平時であれ、戦時であれ、予期せぬ大災難時であれ、あるいは前代未聞の大惨事に見舞われた時であれ、その共同体内での正義と秩序を守りながら、その構成員の生命と自由と財産を守るためです。
もちろん現在、世界中で感染が拡大しているコロナ問題から共同体の構成員の命と健康を守ることも統治の目的となります。
では、政府の政治家にはどうして国民を統治する権限が与えられるのか?

そしてそれは一体どういう根拠に基づくものなのか?
実はここにて決定的な意味を持ってくるのが「選挙」です。

選挙とは、ただ単に"選挙権があるから投票する"とか、"あの立候補者には好感が持てるから"とか、"知名度が高いから、その立候補者に投票する"といった、軽く考えられるものではありません。選挙とは、政治家になることを目ざして、それぞれが独自の公約を掲げて立候補した者たちに対して、私たち有権者一人ひとりが、"あの公約は自分としては何としても実現してもらいたいから、その公約を掲げる候補者に一票を投じるのだ"として一票を投じる行為のことです。
あるいは場合によっては、"実現してもらいたいと思う公約を掲げている立候補者は自分たちの選挙区では一人もいないから、私は白票を投じる"として、全有権者に平等に与えられている参政権という権利を、公然と行使することなのです。

ここで考えて下さい。
あなたが実現して欲しいと思う公約を掲げた候補者にあなたの一票を投じ、また他の多くの有権者も同じ候補者に各自の一票を投じた結果、その候補者が政治家として当選したとします。
その時、その候補者は政治家という国民の政治的代表となります。
そうなれば、その政治家は、有権者の信頼と期待を裏切らないよう、議会で議員どうしで議論し、他者を説得して、その公約を公式の政策または法律として実現しなくてはなりません
それは政治家となった以上、義務です。その義務については国会議員に限らず、政権党に所属していたがために閣僚となった場合にも同様です。

その時、その政治家が議会で議論して他の政治家を説得し得て可決成立した公約を実現する政策ないしは法律は、その後国民のすべてを等しく拘束する力を持ちます。そのことは、言い換えれば、あなたはその政治家に、公約を立法化するための権限と権力を与えたことを意味するのです。と同時に、あなたはその公約が立法化されたとき、その法律に従うことを合意するという意思表示をしたことをも意味するのです。
そして、そのように候補者に権限と権力を与えたのは、選挙のとき、あなたがあなたの一票を彼のために投じた瞬間なのです。またその公約が法として実現された際には、その法に従うと同意したとされるのも、あなたがあなたの一票を彼のために投じた瞬間なのです。

このように、選挙とは、これらのすべての意味を持った行為なのです。
またこのことから判るように、権力というものはつねに服従者(=国民)の合意があって初めて成り立つ概念なのです。もちろんその行使についても、です。
しかし、ここで次のことは重要です。それは、これまでの経維から必然的に導き出されることでもありますが。
一票を投じることでその候補者に負託した権力は、その公約を実現するためだけの、限定付きの権力だということです。当選してしまえばどんな法律でも作ってくれてかまわない、とする無条件の権力の負託ではないし、白紙の権力負託でもないということです。それは当然です。
議員となったなら何でも立法できるとなったら、有権者の意に反することも決められてしまうかも知れないし、国を危うくしてしまう法律をつくられてしまうかも知れないからです。

そして実際、それをやったのが、たとえば民主党の野田佳彦です。彼は消費税増税法を成立させ、TPP参加意向を決めたのです。また安倍晋三です。彼は、特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権行使容認を閣議決定し、安全保障関連法、いわゆる戦争法を強行成立させた。
いえ、それだけではない。
今もなお、コロナ問題では、安倍は国会を無視し、一人、勝手に政策を打ち出しています。それも何の戦略も脈絡も無しの、バラバラ策を、です。

これらは、いずれも、国民が合意もしていないことに権力を行使したことで、それは権力の濫用であり、独裁政治です。もちろんその行為は、国を乱す者という意味で国賊なのです。そもそも、そうした政策を打ち出すこと自体、日本国憲法第72条に違反しているのです。
同条文を確認していただけば判るように、首相にそこまでの権限と権力を国民は負託してはいません。

本来、私たち国民は、主権者として、そのように私たちが合意してもいないことに権力を行使して決めたことには服従する義務を持たないのです。
むしろそのような権力を濫用した輩は、私たち主権者としての権利を持って罷免させるべきなのです。
それは、近代民主主義政治理論を打ち立て、アメリカ独立宣言の原理的核心となり、フランス革命にも影響を与えたジョン・ロックがその著で明解に説明していることです(鵜飼信成訳「市民政府論」岩波文庫 )。

「立法権は、ある特定の目的のために行動する信託的権力に過ぎない。立法権がその与えられた信任に違背して行為したと人民が考えた場合には、立法権を排除または変更しうる最高権が依然としてなお人民の手に残されているのである。その時、人民は、立法権を新たに自己の安全無事のために最も適当と信じる者に与えうるわけである。」(同上書p.151)
そして、ロックは、こうも言う。
「定まった恒常的な法なしに支配することは、すべての社会および政府の目的と両立しない。」(p.140)
「どんな形態を国家がとろうとも、支配権は、宣言承認された法によって支配すべきで、臨機の命令、不明瞭な決定によるべきではない。」(p.141)
「一切の政府の権力は、态意放縦であるべきではなく、確定し、公布された法によって行使されねばならないのである。」(同上頁)

ここで、政府についてもう一つ重要なことを考えてみます。
それは、統治機関であるその政府はどのように成り立っているのか、ということについてです。
ここでとりわけ重大な意味を持ってくるのは首相についてです。この国では内閣総理大臣とも呼ばれる首相とは何か、ということです。首相とは、政府の中で、どういう役割と使命を負っているのか、ということです。

実はこの国の首相の役割と使命については、日本国憲法にさえ、第72条にあるだけで、事細かに明記されていません。元首とは誰かも明記されてはいません。諸外国、とくに大統領制をとっている国、たとえばアメリカ、ロシア、フランスの憲法では、大統領の役割として明記されているのに、です―その意味で、現行日本国憲法は、欠陥憲法です―。
もし、首相の職務が上記憲法第72条に規定されている内容だけであるとすれば、この国の首相、とくに安倍晋三は、憲法に規定のない余りにも多くのことを越権行為として、あるいは恣意的にしていることになります。
そしてこの国の政治家という政治家は、国会議員や閣僚を含めて、そのことを知ってか知らずか、見逃しているのです。憲法学者も政治学者も政治評論家も政治ジャーナリズムも、です。

たとえば憲法違反の法律の強行可決です。憲法と一般法律の解釈改訂です。衆議院の解散権です。あるいは今生じているコロナ問題に対する政府の国民への指示策についてです。それらはどれも、定まった恒常的な法に基づく対応策ではないのです。
コロナ問題に限らず、東日本大震災、さらに遡れば阪神淡路大震災時でもそうでした。そうした前例のない国民的問題には既存の法律ではどうにも対応できないのは判り切っているのですから、本来なら、大惨事が生じたなら、全政治家は、直ちに現場を自分の足で視察し、被災者の生の声を開き、それを受けて、全国会議員が直ちに臨時国会を開いてでも早急に議論して、現下の事態に対処し得る新法を制定しなくてはならないし、政府は、執行機関として、その新法に基づいて行政を行わなくてはならないのです。

それが国会の、そして政府の本来のあり方であるし、国家としての使命なのです。
そこで、この国の首相の役割と使命についての日本国憲法の不備は新憲法によって補充されるべきとしてそちらに譲り、少なくとも私の解釈と理解では、首相とは、次の役割と使命を果たさねばならない一国の行政機関の長のことです
それは、政府として執行し、実現させるべき最終目的を、その実現時期をも明確にした上で、自分が任命した全閣僚を通して、政府の全府省庁の官僚たちに明確に指示し徹底を図ることです。
そこでは、首相は、具体的実施方法など説明する必要などまったくないのです。
それはたとえば民間企業軍隊を見ても判ります。
社長でも最高司令官でも、その組織として、あるいは集団として、最終的に実現を目ざす目的を配下の組織の全員に明確にするだけで十分なのです。

その目的をどう実現させるかは、その最終目的を聞いた組織内のそれぞれのレベルの部署の長が考えればいいことです。むしろその執行方法の具体的詳細はそれぞれの組織の長に任せた方が概して好結果が得られる場合が多いのです。
もちろんそのためには、それぞれの長は、その分野の専門家になれるほどに、自分で猛勉強と自己研鎖をしなくてはなりません。

この例を政府について言えば、首相が全政府組織に向って発すべき最終目的とは、「国権の最高機関である国会が議決した内容を最大の効率をもって最大の効果を上げるこるよう執行すること」です。
その各部署長とは、政府の中枢である内閣を構成している閣僚のことであり、各府省庁を所管している大臣のことです。
それなのに、そうした大臣の立場や役割を考えずに、首相が一人で、何か
ら何まで、それも、その都度、自分の言葉ではなく、各府省庁の官僚が、その所属府省庁の既得権益を守ることを最優先にして書いた政策の文章を棒読みするなど、長として組織というものを知らないことを曝け出していることに他ならないのです。
そしてその姿は、むしろ進んで官僚の操り人形になっている姿であり、官僚独裁を進んで受け入れていることでもあるのです。

たとえばコロナ問題に関して言えば、希望する人にはすべて、PCR検査を直ちに受けられるようにして欲しいと国民の多くが望んでいることに対して、厚生労働省は、必ず「保健所」を通させることに拘っていて、そうした国民の意向を無視した政策を加藤厚生労働大臣も安倍首相も何の罪悪感も感じている風もなく国民に伝える役を果たしていることです。
このような政策を考え出すのは官僚です。この場合は厚生労働省の官僚です。加藤大臣も安倍首相も、それを国民に伝えるメッセンジャーになっているだけなのです。またその政策にメディアが言う「専門家」も同調しています。官僚らは彼らを「お墨付き」を得るために、あるいは保健所の存在を国民に説得させるために利用しているのですし、彼らも官僚に村度して、真の知識人としての責任をかなぐり捨て、科学の方法の王道を曲げて、御用学者化しているのです。

ではなぜ厚生労働省の官僚はこうした政策なり方針を考え出すのか。そして一旦公言したそれらは、国民の多くがどんなに切実に要求していても、それに公僕として謙虚に耳を傾けようとはせず、最初公言したことを最後まで通そうと拘るのか。
その理由には、大きく言って2つあります。
1つは、彼らは、とにかく自分たちが所属する組織一この場合、厚生労働省一一の利益や既得権益を守り、それを維持することを、何よりも優先しているからです。国民の命や健康よりも、です。
「PCR検査の前には、とにかく保健所を通せ」という指示を国民に発しているのも、保健所は自分たち厚生労働省の縄張りの範囲の組織であり、厚生労働省の管轄下の組織であるため、その保健所の存在意義を失いたくはないからです。「保健所など要らない」、「保健所を通していたら、手続きがややこしくなるだけで、重篤患者を増やすだけ」、という国民の批判や要求を受け入れて、「ならば保健所を通さなくてもいいです、最寄りの医者に診断してもらって、その医師の判断でいつでもPCR検査を受けてもいいです」、
そして「PCR検査を誰もが受けられるようにします」と厚生労働省内の一官僚がやったら、それは、厚労省の官僚からすれば自分たちの縄張りの範囲内の組織を失ったも同然となり、彼らの組織内では重大な失態として評価され、それを決断した官僚は、その組織内では一生浮かばれなくなってしまうし、またそれを何よりも怖れているのです。

もう1つは、メンツに拘っているからです。自分たちのやっていることには間違いはないんだ、と思っているからなのです。
もし国民の声や状況の変化を見て途中で方針を変えたなら、自分たちがそれまでやって来たこと、言って来たことの正当性が失われてしまうのではないか、と怖れているからなのです。

実は、官僚たちは、どの府省庁でもそうですが、こうした拘りを、「組織の記憶」(K.V.ウオルフレン)として、明治の維新政府時代よりずっともち続けて来ているのです。それは、徳川幕府が政権を朝廷に返還しようとした時、それは困るとして、薩長勢力が軍事力をもってその政権を横取りしたこと(鳥羽伏見の戦い)に端を発しているのです。その権力略奪行為とそれによって出来た明治薩長政権には正当性はないことに当時の寡頭政治家らは気付いていました。そしてそのことに対して国民がいつ覚醒して反政府行動(自由民権運動)を起こしてくるかと国民に恐怖心を抱くと同時に不信感を抱くようになったのです。その記憶が今日まで官僚組織内で延々と引き継がれて来ているのです。実際、あの悪名高き「天皇制」はそうした空気の中で、官僚が自分たちの地位の不安定性を隠すためにでっち上げて来たことだったのです。

要するに彼ら官僚にとっては、どの府省庁の官僚も同じですが、国民の命や健康、国民の自由や財産、国民の幸せ等は、つねに二の次、三の次なのです。
ともあれ、安倍晋三のような首相は、国民の敵です。民主主義の敵です。一刻も早く排除されるべきなのです。もちろん各大臣についても同様です。自分の言葉で国民に向って政策を語れず、官僚の作文を読んでは官僚組織のメッセンジャー役を国民への背德意識もなく続けているような首相も大臣も即刻自任するべきです。国民にとって何の役にも立たないどころか、むしろ国民をますます危機に陥れ、国をますます混迷へと陥れてしまうだけなのですから。

なお、政府として、国会決議内容についての具体的執行方法の決め方については、それこそ閣僚同士の議論の場である閣議で徹底的に議論し合って決めればいいのです。首相がただ一人、自分に付度してくれる特定の官僚の助言に従って政府の方針を決めるなどとんでもないことで、むしろ閣議の場に、可能な限り多方面の、それも権力におもねることのない、学問的真実のみを語る本物の科学者や専門家らを透明性と公正性をもって招聘し、彼らの助言を謙虚に聞き入れながら具体的執行方法を決めて行けばいいのです。

ただし、そこで決定した方法の実施に当たっては、この国の首相の場合はとくに、全閣僚に向って必ず、こう付け足す必要がある、と私は考えます。

ーーーー各閣僚は、「互いに他の府省庁の管轄には踏み込まない」などという官僚が勝手に設けて来た「タテ割り慣行」などは直ちに止めさせ、むしろ府省庁間の垣根は閣僚が相互に協力し合ってただちに取り払わせ、各府省庁の官僚には互いに連携させ、協力し合って、最大限のスピードをもって執行させよ、と。
もしその時、官僚が所管大臣の指示に従わずサボタージュしたり抵抗したりしたならば、それは公務員たる自覚がないことであり、入所当時の誓約を反古にすることなのだから、憲法第15条1項に基づき、閣僚の権限で直ちに罷免せよ、と。国民から選ばれ、かつ国権の最高機関である国会が決めたことを官僚たちに執行させる上で、あなた方閣僚にはそれだけの人事権と罷免権があるのだから、と。

一方、私は政府内の全府省庁を最終的に統括し、指揮する。政府内のすべての説明責任は私が負う、と。一ーーーー

これこそが真の首相の姿であるし、首相としてするべきことなのです。
決して、長々と、具体的、詳細を語るべきではない。と言うより、そんなことは首相のすることではないし、そもそも首相が現実の具体的細部まで自分の言葉で語れる訳はない。現実を、末端の現場を知らないのですから。
ここでまた重要なことは、首相が内閣を名実共に指揮し、政府全体を統轄し得、政府を公式に代表し得、かつ口先だけではない真の政治的説明責任の中枢となり得て、この国は初めて真の国家となることが出来るのです。

国家とは、こう定義されます。
「社会の構成員であるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会のこと」(H.J.ラスキ「国家」石上良平訳岩波現代襲書p.6)
行政のいわゆる「タテ割り制度」を長いこと放置したまま、国民の前でものを語るときには、決まって、それぞれの府省庁の官僚の作文をただ棒読みしているだけの首相が真の首相であるはずはなく、したがってこの国が真の国家であるはずもないのです。

この国は、戦後これまでも、そして現状も、言ってみれば、官僚に操られた国、それぞれの府省庁の官僚がしたい放題出来る国、つまり府省庁連合からなる官僚独裁国のままなのです。これでは、国民のための政治が行われるはずはありません。つねに、官僚の利益最優先の政治が行われるだけなのです。
したがって、もちろんこの国は、実質的に、民主主義の国でもありません

ところで、私はなぜこの国が国家でないことに拘るのか。
それは、反対の言い方をすると、私は、国は、どこの国でも、特に主権を持った国ならば、どうしても国家でなくてはならないと考えるからです。
それはなぜか?
その答えもやはり既述の国家の定義から言えることなのです。
特にその定義の中の、「合法的な」と、「最高な」と、「一個の」と、「強制的」の意味するところに注目してください。
「合法的な」とは、国民が合意済みだという意味です。
「最高な」とは、これ以上はないという意味です。
「一個」のとは、複数ではないという意味です。
「強制的」とは、誰もが無条件に従わねばならない、との意味です。
国が国家であるとは、これが満たされているということであり、そのことに拠って、特に次の2点が実現されるからです。

1つは、いざ国難、あるいは国民的危機に遭遇したとき、統治義務を負った政府の全府省長の閣僚と官僚が首相の指揮と戦略の下、一丸となって、目的に向かって最も迅速に動けて、国民の生命と自由と財産が最も早く守られる可能性があるからです。
もう1つは、外交交渉の場においてです。交渉に当たる者は、一国の代表として首相から全権を託され、相手国代表と、対等に、勝つ自信を持って交渉に臨めるし、その場で自身の判断で決断できるからです。

以上が、私が言うこの日本という国の統治体制上の重大な欠陥とその意味です。そしてそうした欠陥を抱えるようになった理由です。

では、その場合の政治家と役人の実態とは、また、政治家と役人との関係の実態とはどのようなものか。
それについては、次回の第3回目に、立法機関である議会での政治家の実態をも含めて、私の知るかぎりのことを記してみようと思います。

2020.5.3

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?