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世界と自己との関係性でしかない「景色」とされたものに出会うためには、オールドレンズの不自由さが必要なのだ

廃校と冬の光を撮る。

山陰の平野部の冬は毎日これでもかと曇天が続き、雪か小雨が思い出したように降る。

陰鬱、まさにこの一言に尽きる。

過疎化の最先端を行く山陰の田舎では、学校が統廃合を繰り返し、今や軒並み廃校になってしまった。

子供は希少なのだ。生まれても帰ってこない、帰ってきても子供を育てることはとても困難な環境だ。

資本主義経済はこんなド田舎の隅々にまで行き渡り、農地は雑草を刈る場となり、腐った家屋の屋根は潰れ、学校は使う当てもなく朽ちるのを待つ。

陰鬱な天気に憂鬱な社会、そして極稀に指す冬の光。


久しぶりの青空を見て、カメラを取り出す。

刺すような冬の低い光には、Leica Summilux-M 35mm f1.4 2ndが良いだろう。

強い光との相性が悪いオールドレンズ故に、このレンズとでなければ出会えない視点がぽっと浮き上がる。

オールドレンズ、しかも単焦点となれば撮れない景色のほうが圧倒的に多い。

でもその撮れない景色というものは結局の所、教科書的な構図だけのつまらない死んだ写真か、インスタ映えすれば良いというような自暴自棄な写真か、それとも単なる気まぐれになってしまう。


そう考えてみると、僕はこれが撮りたいという強い意思を持って撮影に出かけることは皆無だ。

早朝に起きて雲海を撮るとか、イベント事とか、人を撮るとか。

何となく場所を決めてふらっと訪れてみてから決める、そんな感じ。

そういうスタイルで行くと、オールドレンズを選んでしまう。そして手に馴染むカメラ、肩肘張らずに、でも便利すぎると面白くない。

主題のない場所での主題探しとなると、当たるも八卦当たらぬも八卦、かのブルース・リー先生のおっしゃった「考えるな!感じろ!」である。

オールドレンズ、単焦点レンズであれば、環境に身を委ねなければならない。大事なのはフットワークと鋭敏な神経、身体を超えた過敏さ、それでいて自然体で。

ここを割り切ると「楽しむ」しかなくなる。


世界と自己との関係性でしかない「景色」とされたものに出会うためには、オールドレンズの不自由さが必要なのだ。

不明瞭であるが故に選択肢は自然の摂理で収束していく。

今回の写真は、この冬の貴重な晴れ間のこの廃校でこのオールドレンズをひっつけたSIGMAfpで関係することとなった偶然という名の必然と見せかけた気まぐれ。

しかし、冬の光、山陰人には愛おしい。



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