SIGMA fpでとりとめもないショートフィルムを撮るのが楽しい
SIGMA fpはコンパクトなフルサイズミラーレスデジタルカメラであり、なんといっても動画が手軽に撮れてしまうことが革新的だ。
といっても、最新のデジタルカメラであれば猫も杓子も手軽に動画も撮れる、そしてfpくらいコンパクトなカメラも選択に迷うくらいたくさんある。
しかし、やはり僕にはfpでなくてはならない・・・気がする。
僕は写真をメインに撮っているが、合間合間で動画を気分で撮っている。
fpの良さは、こんな適当な使い方がなんとなく許される感覚を与えてくれるからかもしれない。
なので、気が向いたら写真のついでに動画を撮る。PCで再生して、いらなかったら捨てる。写真のように動画も撮る。
面倒くさがりなので、リグを組んだり、ジンバルを使うなんてこともせず、手ぶれ補正のないfpにライカのオールドレンズを付けて動画を撮る。
もちろん手ぶれはひどいし(DaVinci Resolveのスタビライズありがとう)、アングルを変えたり、ピントをずらしたりなんて芸当はできない。
もちろんfpはがっつり動画を撮りたい人のための機能は充実しているし、それこそfpの持つ「過剰」な拡張性を駆使すれば映画も撮れてしまうレベルだ。
だが、こんな中途半端な使い方がfpの真髄でもあると思うのだ。
fpの独自性はまさにここにある。
肩肘張らず、過剰なスペックにより意識を侵食されず、ただ撮影するという行為自体を楽しむ。やはりこれが楽しいのである。
故に、我がショートフィルムは何かテーマもメッセージもあるわけではなく、そもそも結果を求めず撮ってみたものを(かっこよく言えば)ブリコラージュされた代物である。
しかし、そもそも意識=選択は結果論であるという近代の社会概念が大嫌いな僕にとって、説明責任を果たそうという気すらない。
「それ」を「どう」撮ったのか、それはいくら言語化しようとも膨大な関係性の結果論でしかなく、言語化できない部分が本質だったりする・・・という言語化すら不可能な領域まで関係している。
例えばきれいな花を撮ったとしよう。
なぜその花を撮ったのか?きれいだったから、そこにあったから、テーマに沿っていたから、花を撮りに来たから。
ではその「なぜ」への証明は、証明だけのための言葉でしかないとしたら。
「昨日嫌なことがあったから」かもしれないし、「好きな映画の1シーン」が無意識化で浮き上がったからかもしれないし、フロイトやユングが喜びそうな現象の結果かもしれない。
結果からプロセスに戻ると、それは一本の線ではなく、アメーバのように多重構造のあらゆる記憶や感覚や無意識やらなんやらの果ての果てまで拡がってしまう。
インターステラーの例の図書館のようだ。
逆に言えば、人間はそんな途方もない、科学的に証明することが不可能な関係性の果ての「結果」でしかないものを、意識やら責任やら根拠としているのである。
ムルソーの殺人の動機が「太陽のせい」だったのは、そんな不条理を一言で表している。
だからこそ、とりとめもないショートフィルムは楽しい。
プロセスなき結果、時間的な根拠はなく、気が向いたら編集し、気づいたら撮っていたもので、意識とされるものの段階を勝手にブリコラージュし、あらゆる文脈を無視し、誰に見られるわけでもなく金になるわけでもない、しかしそこに生まれたという新たな関係性は、より明確に僕の中で生きているのだ。
fpじゃなきゃ撮れないというわけではないが、この妙な感覚の関係性の先に、身体性を宿したこのカメラがいつもある。
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