見出し画像

SIGMAfpと「同じような写真」と「コミュニケーションとしての写真」

SIGMAfpで出雲大社を撮ってきた。今回はテーマを決めて写真集『わたしが見ていたかもしれないもの』としての撮影だった。

ついでにSIGMAfpで、普通に出雲大社を撮ってもいる。

ん?そもそも「普通」ってなんだろう?

観光写真のような記録、それが「普通」?


画像1

「普通」とは、『他者との共有がしやすい表現』であると思う。

他者との共有がしやすい=普遍的な記号

例えば、富士山といえば独立峰富士山が日の丸構図でドンと構えたイメージだろう。

ある対象には普遍的な記号としてのイメージがあり、それは積み重なった情報から生まれたり、人間が持つ本質的な美的感覚がそうさせたり、時には教条的に普遍化させられることもある。


画像2

現代は、SNSにより「普遍化されたイメージ」の共有が容易になりすぎたために、普遍的な記号の権威がより強くなっている。

情報の積み重ねとは、歴史であった。例えば日本人と米国人では普遍的な記号としての美的感覚は違う。これは当たり前だ。

しかしSNSは膨大な情報を瞬時に共有させ、さらに国境や文化圏を越えて拡散させることができる。

よって普遍的な記号の入れ替わりが早いが、定着するのも早い。


画像3

普遍性がより権威的になり、そしてすぐに廃れる。だからこそ、「同じような写真(イメージ)」が氾濫する。

それは普遍性の賞味期限が早いため、概念的な基準がよくわからなくなってしまったからだ。

表現は共感されることが目的だが、それには0が必要なのだ。0があるから、プラスにもマイナスにもアプローチしようと思えるし、0があるから創造と破壊もできる。

この0こそが普遍的な記号である。


画像4

現代のような情報化社会では、情報は膨大かつ劣化せずに積もり続け、瞬間的に生まれては忘れ去られていく。

その中で、このスピード感と脆弱な土台に縋ろうとすると、「同じようなイメージ」への盲信になってしまう。


画像5

かつての写真表現では、創造と破壊はもっとゆっくり行われてきた。

名取洋之助と東松照明の激論のスピード感は、現代から見れば非常に牧歌的だ。

カメラの普及度、技術的・経済的なコスト、発表する媒体の狭さ・・・スマートフォンがこの全てを一気に破壊したからだ。


画像6

大衆化された写真は、教科書的な基本概念を求めた。

なぜなら主要な写真表現の発表場所がSNSになったからだ。不特定多数の多様な大衆社会に写真は取り込まれ、動物的な反射による共感が至上命題となった。

表現とは、他者からの肯定によるアイデンティティの確立、要するにドーパミンをドバドバ出したいから行うのだから。


画像7

そこにあるのは普遍的な記号による共感を求めたシンプルな写真であり、だからこそ流行の写真表現・撮影技法が持て囃される。

教科書的な構図に、流行のフィルターをかける。

これが現代写真に求められる普遍的な記号である。


画像8

流行のフィルターとは、今では「エモい」だろう。

これは華道や茶道に近い。ルールを遵守しながら、少し遊び心を入れる。

ルールを遵守する姿勢が強ければ強いほど、大衆的な共感が得られる。

そこに流行の表現・技法を添えることで、「流行り」と「羨望」効果により拡散してもらいやすい。


画像9

そこには前衛的な表現はなく、「模倣」と「外し」のセンスが求められる。

模倣と外しはできそうでできないからだ。

だから共感を呼ぶ。圧倒的なスピード感のタイムラインで反射的にいいね・拡散されるには、ミラーニューロンを発火させなければならない。

前衛的な表現は大衆的共感が得られず、お硬いルール至上主義表現はスピードについていけない。

最低限のルールを備えつつ、流行りの忠実な模倣、そこに僅かな個性である外し、それこそが現代写真なのだ。


画像10

あくまでも現代写真とは何か?である。

写真コンテストではこのような写真は一次選考にもかからないだろう。

でも写真コンテストに選ばれるような写真は、残念ながら現代写真ではない。

写真雑誌の休刊が相次いでいるのがまさにそうだ。カメラが売れないのも。

カメラメーカーや写真雑誌はスマホに贖うために頑張っているかもしれないが、残念ながらそれは懐古趣味にしか見えないのだ。

だって今は写真コンテストで大賞を取るより、SNSでバズった方が喜ばれるのだから。

根底的なところに、写真で飯は食えないというのがあるのだと思う。

写真は完全に趣味の世界になったのだ。

広告を撮るフォトグラファーとは違う。フォトグラファーはプロフェッショナルな世界で、顧客から求められるイメージに近づける技術がある人であり、それは大衆的ではない。

写真は趣味であり、コミュニケーションツールへと完全に移行した。


そんでもって、僕はこれはとても良い傾向だと思う。

好きな写真が撮れる時代になったのだから。写真コンテストのような狭小な空間の評価=命題ではなくなった。

「写真はこうだろう!」とか技術的なことばかりが持て囃される時代は終わり、コミュニケーション的な共感を求めたい人も、自己表現を極めたい人も、簡単に写真を共有できるフォーマットが生活と共にある。

写真はコミュニケーションになったわけだ。


だから今回の出雲大社の「普通の写真」、これは歴史あるルールを守った写真であり記録写真である。

記録は共感できないと意味がない。だから前半の写真は、まるでビジネスメールのような写真だ。

「わたしは出雲大社に行きました」

後半の写真は少し記録の範囲を狭めてみた。

「わたしが出雲大社で撮りました」

最後の写真は、

「わたしが撮りました」


「コミュニケーションとしての写真を撮る最適なカメラはSIGMAfpだと思うの」という話

この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・