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あるがまま~な散歩写真

中平卓馬著「なぜ、植物図鑑か」を読んで、『あるがままの世界を受け入れた写真』というの実践してみた。

だがこれがまた難しい。そもそも今までのデジタルカメラでの撮影のように手当り次第撮ろうとすると、個人のイメージとやらが入り込む余地がずいぶんとぽっかり口を開けている。

今回は、前回よりは少し「テーマ」を強めに出してみた。

テーマがあれば、逆にその枠の範囲に写真を収めることができるのではないかと考えたのだ。

そしてまたまた愚直に自分なりの植物図鑑を、あるテーマに沿って撮ってみた。※中平は植物図鑑を作れと言っているのではないよ。

写真はNikon D750・Nikon AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR

JPEG撮って出しをnote用にリサイズしたもの。


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テーマ『人工物に生きる植物図鑑』

極力、無駄のない情報の写真にしてみた。

ん?無駄のない写真ってなんなのか?写真はそもそも漂っている情報を固定して表出しているわけだから、写真=無駄ではないのだろうか?

そしてその無駄の有り無しを明確にジャッジする存在を規定することが不可能だというジレンマに陥る。

なぜなら、そもそも写真を撮ること自体が無駄であり、情報こそが『あるがままの世界』におけるノイズなのだから。


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そんな中でふと明確なイメージのある写真を撮った。

これが中平卓馬のいう『世界を歪曲させたイメージ』であり、僕が思う『世界はこうあるべき』というイメージだ。

何の変哲もない雑木林に生える草、そこをスポットライトのように照らす光、少し開放気味で奥行きを演出し、光のコントラストで写真全体を立体的に・・・

この写真を撮った刹那にこのイメージを撮るイメージをしたのはいうまでもない。

このイメージへ繋がるイメージの記号こそ、『世界はこうあるべきという人間中心主義なイメージ』なのか?

そこにはちっぽけな承認欲求、アートへの思考、そして撮影に要したコストの回収、もっと解体すれば山ほど出てくるであろう「情報」。

中平卓馬がプロヴォークの挫折で感じたのは、こんな俗物的な感情の情報だったのかもしれない。

撮影行為自体が、自然への挑戦という比喩になってしまう。そこには中平卓馬が毛嫌いしていた「権力への憧憬」があったのではないか。

超個人的な表現とは、権力への階段の第一歩であったのかもしれない。

だからこそ、中平卓馬は「人間の絶望的な敗北を認めよ」と云うのだ。



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