見出し画像

眼が捉えたありのままの揺らぎを写真にしてみる

あるがままの世界を写真にするーというテーマを持って撮影を行っている。

今までテーマを決めて写真を撮るなんて事はしなかったので、とっても新鮮な気持ち。そして楽しい。

しかし、ありのままの世界を撮りたいというのは、中平卓馬の著作を読んでしまったからであり、それが中平卓馬自体がうまく表現できなかったという問題テーマなのだ。

なので最近、多種多様な写真に関する本や写真集を読み漁っている。

そこで得た知見の一つが、上記リンクの写真集だ。

非常に簡単に言うと「あるがままの世界を見た視点を浅いピントで表現する」という試み。

鈴木理策の写真集を見て知ったのだが・・・また話が長くなりそうなので、写真を見ながら書いてみよう。


画像1


画像2


画像3

見て頂いたらおわかりいただけるだろうが、ピントが「世界を見た時のまま」になっている。

眼で世界を見た時、こういった注視になることが多い。

特にこの写真のように、ある意識化された点を縫うように眺める。

この世界は存在するが、この世界を見るという行為は存在はするにもかかわらず、見る人によって違う世界となる。

ここに共感を求めるのが表現であった。黄金比や教科書的な構図で、世界を数学的デザインで切り取る。

しかし、そうではなく「あるがままの世界」を記録しようというのが中平卓馬の主張であった。

中平卓馬は植物図鑑のように撮影するという技法を考えたが、それもまた完全なる記録に徹することが出来ず苦悩した。

そこで鈴木理策は、浅いピントによりあるがままの世界をあるがままに自分が知覚した瞬間を記録するのだった。

これはあるがままの世界ではない。しかし、あるがままの世界を完全に記録するのは不可能である。なぜならあるがままの世界は、インプットする人間の「こうあって欲しい世界」になってしまうからだ。

だからこそ、撮影者の主観=意識化を記録することが、あるがままの世界の記録に徹しているのではなかろうか?


たしかに、何気なく景色を見ながら散歩している時、カメラで言えば開放になったり絞ったり、そうして意識と無意識の間を揺らぎながら我々は世界を知覚している。

例えば海や山を遠景から眺めていたら、それはカメラで言えばf16とかでパンフォーカスした視覚情報になる。

だが、目の前に鳥の死骸があったとしよう。すると意識的に死骸を注視し、f2とかでしっかり対象にピントを合わせて情報を集めようとする。

これは歩きながらでも同じであり、進行方向はパンフォーカス、道に咲く一輪の花は開放でピントを合わせる。

絞れば全体を、開放にすれば無駄な情報を排して意識的に対象を見る。

このように世界を揺らぎながら知覚している。

それを写真で表現するというのが、鈴木理策の写真であり、今回は僕なりにそれを解釈して撮影してみたのであった。


上記の写真は同じ世界の片隅を僕が見た一連の流れを撮影した。

苔の地面を這う木の根、それを舐めるように見つめたわけだ。

「ならば動画での記録が良いだろう」と思うだろうが、実際の人間の目は動画のように情報処理しているわけではない。

パラパラ漫画なのだ。

鉛筆を振れば曲がって見えるのは、パラパラ漫画の情報を都合よく処理して見えている気にさせている人間の脳の特性がよく分かるだろう。

人間の目は、パラパラ漫画のように一枚一枚の視覚情報を繋ぎ合わせている。

よって上記の写真の流れは、それに近いように撮ってみた。

※しかし、我々が思う動画も実は同じ原理だったりする。それがまた面白いところでもあるが。


画像4

画像5


画像6

画像8


画像8

画像9

こうしてみると、「世界は表現する対象」であったのが、「世界に埋没する自分」へと認識する。

それは対象としてではなく、圧倒される自分のせめてもの抵抗であり、そして共存という妥協的態度しかなくなり、だからこそ生と死に回帰するしかない。

この揺らぎこそ、世界なのであり、現代人が忘れてしまったことなのだ。

我々は揺らぎなど存在しないかのように教育され、完全なる社会の構成員として生きていると錯覚している。

だが、揺らぎを徹底的に排除することで生まれた矛盾に苦しんでいるのだ。

揺らぎを感じること、それを記録すること、それが中平卓馬を突き動かしたのだ。

これからも、揺らぎを自分なりに撮っていきたい。


今思えば、揺らぎを撮るカメラとして最適なのはSIGMAfpであり、Leicaのレンズだった。

この辺はリンク記事に書いています。

この記事が参加している募集

#カメラのたのしみ方

54,830件

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・