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カメラを持って散歩に行こう

急な休みの日、昔ならほうぼう出かけていたが年齢的な達観なのか、特段やる気がわかない。
そもそも休みの日の過ごし方は、スターリン時代からさほど変わっておらず、イデオロギーの垣根を超えた生産性向上のための休養と供給を凌駕するためだけの消費を無理矢理強いられている状況である。
このままでよいのか?
そんな浅知恵遊戯をしている時間はもったいない。
かといって無為に虚無的消費行動に走るのは生来天邪鬼な僕にとっては納得できない。
だからこそ、カメラを持って散歩に行こう!


何やら現代人の幸福度を上げる活動とは、非労働的な創作活動だという。
アートでも良いし、身体性に振り切ってスポーツだったり、旅行や登山なんかの経験消費もそう。
何かしら社会から規定されている役目からの逸脱、そうでもしなければ個人は個人として、僕が僕として認識できない・・・くらい世の中は個人で飽和している。


また前述の話に戻るが、そこにこそいろいろな無為な消費を誘引する産業がねじ込まれている。
世の中うまく回っているものだ。
そういった見えない引力のような強制力によって、我々は生かされている。
そんな被害妄想を持っていても、結局僕は僕程度でしかない、世界に何千万人もいそうな消費層Aでしかないのである。
競争から降りることで自己を認めようとしても、そこには何も用意されていない。


となると、結局は自己満足、それ即ち見えざる手の平で踊らされているだけである。
自己満足と時代性と生まれ持った環境とポテンシャルが合わさればいわゆる成功者となれるが、どれも結局は一枚の皿の上のポジション争いでしかない。
その皿は誰に用意されているのか、それがわかっちゃいるけどやめられないように社会は構成されている。


ああ、所詮虚無やねん。
そんなニヒリズムに浸ることは慰めの報酬にすらならず、僕は急な労働からの開放時間を持て余す。
すべてが連環し、気づけば足を取られ、ニヒリスティックな太極的視点から自らの小ささを知るのである。
この繰り返しから目を背けることが、良き市民なのであるが。


そんな中二病でも世界に実存的に存在したいそこのあなた!
カメラを持って散歩に行こう。
カメラは紛うことなき消費の権化のような趣味活動ツールではあるが、世界を創造的に切り取ることが簡単にできてしまう道具である。
しかも、二元論的上手い下手なんて基準はない。写真界に大谷翔平はいない。


カメラは世界を恣意的に切り取る。
もちろんカメラという機構に依存しているが、ほぼ人間の眼の世界解釈に近く、それでいてちょっと不可思議なアレンジまでできてしまう。
そこにあったものが、これだけわがままに改変・創造できてしまうのはなかなかない。
わがままな解釈が即物的に現れる。


そこには究極の自己満足があり、しかも簡単に即現物支給である。
もちろん、SNSでバズりたいなんて淡い期待を持ち込んではいけない。
ただ自分が撮りたいものという世界解釈をぶつけるのである。
それが先人の写真家の真似でも良いし、ただの記録としての撮影でも良い。
カメラは究極のわがままである、自己満足的世界解釈が大手を振ってできるのだ。
そう、この強制と矯正の共生の世界で。


赤信号で止まれというのが納得できないと無視したら、あなたはこの論理から外れ、事故を起こすか罰金を払う羽目になる。
大なり小なり、世界はこの論理で運営されている。
だからこそ、個人の解釈どころではなく、脳の認知経路まで矯正されているのである。義務教育という名の下。
さあ、そんな世界であなたは何をしているのだろうか?


今すぐカメラを持って、世界をわがままに切り刻め!


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