見出し画像

『不気味を撮る』 ライカMモノクロームと水木しげるロード

鳥取県境港市の水木しげるロード。
水木しげるといえば、ゲゲゲの鬼太郎を代表とする妖怪漫画家。
個人的には水木先生の生き方が一番好きなのだが、終生「不気味」なものを愛した愛すべき変人である。
そんな水木ワールドが観光的?に体験できる水木しげるロードでスナップなのだ。


水木しげるロードといえば、妖怪ブロンズ像。
そしてそんな不気味な妖怪を見に来る観光客という名の百鬼夜行。
そもそも不気味なものってのは、存在するかどうかは問題ではなく、そして霊感や西洋哲学的存在論が馬鹿らしくなるくらい「ただそこにあるもの」であると思う。
水木作品の妖怪たちは、人間の歴史に縛られず、そのくせ人間の生活のすぐそばにいるのだ。
妖怪やおばけなどの迷信が信じられていた時代はもっとたくさんいただろうし、そんなものはAIで否定されてしまうであろう現代においても、不気味なものというものはあるに違いない。


水木先生のエッセイなどを読めば、よく生きてこれたなというレベルの社会不適合者(褒めてる)。
なんせ学校、軍隊、労働社会という近代の三種の篩(ふるい)ですべて「落第者」とされ、唯一居心地の良い場所だったのが太平洋戦争最前線のニューギニアの土人(水木先生は土と暮らす素晴らしい人々という意味で使っている)の村だったりする。
子供の頃から朝に弱く、山野で虫を取ったり駆けずり回り、南陽の島々のゆったりした時間が心地よいみんなの土人、それが水木先生なのだ。


水木作品の妖怪や不気味な者たちの目線、人間の豊かなのに日々せこせこ生きている姿を小馬鹿にしているあの感覚、それが現代の風刺としてそれこそゆったり漂っている。
不気味なものが近代以降すべて科学的根拠とやらで打ち消され、人々の身体感覚からも消え去った昨今、水木先生は非常に稀有な感覚のまま壮絶な時代を生き抜いたのである。


かくいう僕もド田舎生まれで子供の頃は虫を追いかけ、気づけば社会不適合者として反骨精神そのまま世に佇んでいるが、最近はようやく世の中というものがわかってきた気がする。
水木作品のような不気味な世界は確実にあるのである。


世界は一つではないということだ。なにぶん、昨今の教育や社会の当たり前では世界は一つしかないとされているがそんなことはない。
一つしかないから不安や失敗を恐れ、ひどいときには自ら命を絶ってしまう。
世界などは腐るほどあっていいし、その中で好きなことをやればよいし、駄目だったら逃げ出せば良い。


水木先生の壮絶な人生は、常に落第し(50人受かる試験で受験者51名でも落第)、戦争で生死を彷徨い(左腕がなくなったけど死ぬよりはマシだと思ってそんなに気にしていなかったり)、土人と暮らしたいと思ってみたり(そんなこというのはお前だけだと上官に怒られたり)、40歳近くまで貧困に喘いだり・・・まあすごいのだ。


それでも水木先生が腐らず生きてこれたのは、世の中こういうもんだという達観であり、そして絵が好きだという「世界」を持っていたからだ。
表面だけ見ればいわゆる自己責任社会の負け組のような人生かもしれないが、その後の大成功を抜きにしても、水木先生はそんなこと気にしないというか意識もしていない。
不気味なものというのは、社会に順応しすぎてしまった人間の郷愁なのかもしれない。


僕には写真を趣味に生きているという世界線がある。
そこはまさに妖怪のいる世界と近しい関係にある。
写真世界なるものが「見えない」人々にとって記憶にすら残らない景色に、我々は妖気を感じてシャッターを切る。
普通の社会に生きているとわからない不気味な世界を体感できるのである。
そんな写真は特に見向きもされないのだが、そこには妖怪が見えるのである。
妖怪というのは、きっとそういうものに違いない。



サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・