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「モノクローム考」 Leica M Monochrom(typ246)で廃校を撮る。

モノクローム専用カメラだからって、モノクロームに合う景色を求めがちになるのは、こりゃあ人間の業というものじゃよ。
ジブリキャラっぽいセリフのままに、モノクロームらしい景色を求めてヤックルと共にアシタカせっ記。


モノクロームしか撮れない糞変態カメラは、撮るものをそれはそれはよく選ぶのである。
もちろん何を撮っても良い。
しかし、カラーの失せた暗い写真を見ると、それは間違いであったと気づくのである。
モノクロームの良いところは、色というノイズ(邪念)を打ち払い、景観の光と線のコントラストとがっぷり四つ、まさに真剣勝負である。
色の持つ情報量は、シンプルなデータ量を凌駕する煩さを持つ。
不要不急の開放でぽやっぽやにボカしたピンクの花でも撮ろうものなら、自ずと写真のテーマからなにからを十把一絡げでインスタ映え用写真として消費されてしまう。
色の持つ情報量は、強いカテゴリの引力に囚われている。


モノクロームはそんな色のない世界を写真に押し込めるのであって、安易なカテゴリ分けには落ち込まない。
無論、モノクローム写真というカテゴリ分けには強制参加である。
色に縛られた世界に生きている我々は、色のないモノクロームな写真を撮ることで、色の持つ引力を知るのである。
そんなこんなでモノクロームに合う景色とは、カラーで撮るべき情報の象徴たちが廃された世界なのである。
赤いポストの横に赤い靴を履いた女性が通ればそれは絵になる。
青と黄色と赤の服を着た三人が偶然横並びに歩いていたらそれも絵になる。
真っ暗な谷底でひっそりと咲く青い花もそれはそれは絵になる。
こういった色の持つ象徴は、それだけではなく、色と色の相性に引っ張り合い、押し合いながら、こっくりさんのようにある象徴へと、カテゴリへと落とし込む。
色の象徴は雄弁なのだ。


モノクロームは偏にこのような象徴がない、故に「味気ない写真」が量産される。
ジャーナリスティックな写真とモノクロームの相性が良いのは、被写体自体に強いメッセージ性があるからだ。色の象徴は、恣意的な印象を与えてしまう。
だからこそ、モノクロームの味気なさはジャーナリズムには良いかもしれないが、ただそこらへんを撮る我々からすると「モノクロームが似合う景観」を撮りに行く羽目になる。
寂しさ、郷愁、恐怖、不安、権力、都市、虚無、こんな景観がモノクロームらしい景観だろう。


「味気なさ」ゆえの強いメッセージ性を求めるモノクローム撮りの習性は、逆に言えば撮りたいものがあるからこそ・・・ともいえる。
かくいう僕はというと、気づけばモノクロームの写真ばかり撮っていた。
やはり「撮らされる写真」に飽きたというのが一番の理由であろう。
本質的に天邪鬼である僕は、SNSによる普遍的な「いいね」の追求と競争原理から一歩引いた地点でアイデンティティを育んでいる。自己満足というやつだ。


リー・フリードランダーのような写真が撮りたいのである。
それはどこでもない大したことのない景色で、何かメッセージ性を脚色したかのような「味のある写真」を撮りたいのである。
リー・フリードランダーの写真は、天邪鬼的地点からのメジャーへの皮肉めいた挑戦であり、かつやる気なく不誠実で抜け目がない。
これこそモノクローム写真のメッセージ性の強調の極地であるわけだ。


だからこそ、何気ない日常の中に爆弾でも設置するようなヒリヒリする写真が撮りたいのである・・・がこれがまた難しい。
しかしそこに撮りたいものがあるのだ。
その撮りたいものは抽象的過ぎてカテゴリ分けすら許さない。
そこに撮影行為の面白さがあると思うのである。
モノクローム撮りは、撮影行為主体の自己満足を追求する生き物なのである。


故に答えなどない。



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