見出し画像

どこからどこまでが花火?と写真の関係

久しぶりの花火大会。
35mmのライカのオールドレンズを引っ提げ、生まれて初めての大音響と心臓が歪む衝撃により「帰りたい」を連呼する我が子を尻目に、そして花火を見たい気持ちが勝り適当にシャッターボタンを押す自らに問う。

花火はいつからが花火なのか?
花火はヒューッと上がってドカンと一発、火の粉は数学的挙動を空にて示し、人々はこの自然を彩る放物線と非現実的な音により夏を感じる。
夏とは体感するものなのだ。
花火を撮りたい気持ちはあるが、かといって早めに陣取り三脚を構えて「映える」花火写真が撮りたいというわけではない。
生来天邪鬼、しかも花火を見ながら適当に撮る、経験と記録の間に揺れる中、なぜか絞り値はF1.4。
ライカのズミルックス、いわゆる第二世代の35mm、開放にて大暴れのその薄いピントは花火をどう写すのであろうか?
適当にISOを設定し、あとは暗闇を帳消しにする光の炸裂に合わせてシャッターボタンを押す。遅れてやってくる音に騙されることもしばしば。

花火はいつからが花火なのか?
ヒューッと昇っていく人々の期待を乗せた火球も良し、火の粉の切れるその様のチラチラした残像になりかける一瞬もまた良し。
下から見るか横から見るかより、いつを花火と見るか?
この時間的な制限は、花火の名残すらない花火と花火の間すら花火にしてしまう。
わかりやすい瞬間を切り取るというカメラの何たるかを体現しているような「間」である。
花火はいつからが花火なのか?を記録するには、一枚の写真では足りないという結論に至った。
そうなれば、今回の動画は一枚の写真でもある・・・といえよう。

この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・