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写真と動画の狭間で光と生命を撮る

カメラとは光を捉え、それを閉じ込める暗箱である。

そして人間の眼と同じように、光の影響で像が浮かび上がる。

今回は光に生かされ、そして光によって像とされる自然物を撮影した。

太陽光により生まれた小さなエネルギーは、長い時間と食物連鎖の系図をたどることで我々は生きている。

光と自然物を撮ることは、すなわち我々の世界そのものである。


世界の縮図を一枚の写真に収めることは、写真技術が生まれた初期から行われていた。

一輪の風に揺れる花とまばゆい光の描写は、普遍的な安定感を感じさせてくれる。要するに落ち着くわけだ。

今回は、世界の縮図としての光と生命を写真的表現のまま動画にしてみた。


写真的表現とは、1枚の写真で全てを語りきることだと思う。

もちろん組写真や写真集のような文脈の中の1枚の写真となると話は違ってくるが、1枚の写真だけを手にした時そこには0と1しかない。

引き込まれるか引き込まれないか。

引き込まれた場合も、引き込まれたという事実だけがある。

そこにどのような理由をつけようが、それは1でしかない。

その1は共感だったり驚きだったりトラウマだったりするかもしれないが、しかし1枚の写真により心を動かされたという事実は確かに存在し、それが1でもある。


動画は流れであると思う。

故に緩急が存在し、時系列や物語性により視聴者を引きつけ、時に突き放しながらも引き寄せ続ける。

まず時間の方向性があり、その中の関連される事象をつなぎ合わせ、物語として解釈する。


写真的表現は「瞬間の美」であり、動画の流れの中の物語性を「ある方向性のある時間」とすれば、この両立は可能なのだろうか?

そう思って撮ってみたが、つまるところ写真的構図の中にある「ある時間の方向性」の羅列になってしまう。

これでは写真集を眺めるような見る側の恣意的なテンポの良さもなく、かといって物語性を感じ得ない中途半端な撮る側の恣意的な時間の羅列に過ぎないのではないか?

ある時間の方向性の羅列を全体的に俯瞰すれば統一性があるように仕向けることはできる。だがそれでは写真的表現の良さが消え去ってしまうのではないか?

今回の動画は光と生命というテーマがあるが、被写体も撮影時間もバラバラであり、テーマ以外の関連性がないというゆるい関連性で辛うじてまとめてある。

その中で物語性を排し、関連の萌芽とタイポグラフィの間を行き来する写真的構図の範囲を逸脱しない、かつ写真から逸脱した時間性を獲得してしまう一歩手前のショートフォトムービーの羅列・・・

結局、写真的な撮影者の視点の優位性を動画の流れに劣位感情として落とし込む。

そうしてこの動画となった。

悩ましい。写真とはなんぞや?




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