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【短編】「イルカの喪失」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 068

 我々人類がイルカを喪失したのは2026年5月21日のことだった。

 その日、伊豆の小さな水族館でイルカの飼育員として勤務する27歳のカタオカアキラは出勤後、イルカたちの異変にすぐに気づいた。

 仕事着に着替え、1日分の餌となるイワシの入ったバケツを飼育用のプールに傍に並べたカタオカは、おはよう、とイルカたちに声をかけた。小さな入江をコンクリートで区分けして造られた天然のプールは美しい深緑色に光を濁らせていて、その中をイルカたちがゆうゆうと泳いでいた。水族館には8頭のバンドウイルカと4頭のカマイルカたちが飼育されていて、30分ほどのショーを1日に3回行い、訪れた家族連れや恋人たちを楽しませていた。イルカたちはプールサイドに近づくとカタオカの給餌するイワシを順番に平らげていった。カタオカは並んでいるイルカたちの口の中をチェックし、病気などの異変がないか、入念にチェックした。どのイルカも健康で体調に問題はないようだった。だがカタオカはこのとき、違和感を感じた。イルカたちから何かが欠けている気がしたのだ。何が欠けているのかは分からなかったが、5年間、イルカたちと毎朝、顔を合わせてきたカタオカにはそれがわかった。イルカたちは、昨日まであった何かが欠けていた。

 カタオカはこのことを上司に伝えることにした。哺乳類課の課長は施設長のヤマシタヨシアキが担当していた。ヤマシタは55歳の古株で、この水族館で30年以上にわたりイルカを飼育してきたベテランだった。施設長室をノックすると、ヤマシタは売店で買ったハムサンドウィッチをかじりながらパック入りの牛乳を飲んでいた。

 「ヤマシタさん、ちょっと相談が」

 長身のカタオカがヤマシタの机の前に立つとほぼ真上からヤマシタの頭頂部を覗く形になった。ヤマシタの頭頂部にはまだ毛が十分に残っていた。太く、しぶとそうな毛髪だった。

 「金か。」

 「いえ、イルカのことで」

 「お前は大学出の学者だろ?俺が相談に乗れるのはお前が勃たなくなった時くらいだ」

 「様子が変なんです」

 表情を一変もしないカタオカにプールサイドに連れてこられたヤマシタは、静かに泳ぐイルカたちを見るなり、最後の牛乳をズルズルと吸い込みながら静かに呟いた。

 「なるほどな」

 二人は、それからしばらく黙っていた。駿河湾の潮騒と海猫の啼く声だけが辺りの空間をまばらに埋めた。

 ヤマシタがしゃがれた低い声で唸った。何かを諦めたような口調だった。

 「こらあ、あれだ。イルカじゃねえな」

 カタオカはヤマシタを見た。その横顔はヤマシタに出会って以来、初めて見る表情だった。

 「イルカじゃない?」

 「お前だって分かってるんだろ?」

 ヤマシタはじっと水面を見ていた。カタオカはその表情の成分は寂寥感だ、と気づいた。

 「いえ、僕は、何かが変だ、と思っただけで、イルカじゃないとは」

 「そう思いたくないだけさ」

 カタオカは黙った。イルカたちは網で区分けされたプールを静かに回遊していた。最年長はバンドウイルカのナツメで、東海地方の水族館で生まれ、この水族館にやってきた。そのナツメを年長に、ヒマワリ、マカロン、ミント、リボン、の雌5頭と、リュック、サック、ウォッチ、の雄3頭のバンドウイルカ。ひとまわり小さいカマイルカはマーズ、ムーンの雌2頭と、プルート、コメットの雄2頭だった。12頭は思い思いに海水の中で身を遊ばせていた。マカロンはプールの外周を高速で泳ぎ、リボンは水面にぷかりと浮き、半目を閉じていた。プルートとコメットはじゃれ合うように水中で絡み合っていた。

 「すぐに気づくよ、お前も。いやでも、すぐに。さあ、まいったな」

 そう言い残してヤマシタは空になった牛乳パックをくず入れに叩き込み、施設長室に戻っていった。

 取り残されたカタオカは、開演に間に合うようにイルカショーの準備に取り掛かった。何かが欠けている、という抽象的な印象で開演を遅らせることはできない。現に、イルカたちは元気だった。病気でもなければ体調が優れなそうな個体もいなかった。

 ウォーミングアップを始める時間だった。カタオカはいつもやるように、号令をかけた。ピッと笛をならし、右手を高く上げた。イルカたちを集合させるための合図だった。

 だが、イルカたちは反応しなかった。

 カタオカは夢を見ているようだった。あるいは、悪いジョークにひっかかっているみたいだった。こんなことは一度もなかった。吸い付くようにイルカたちが集まってくるはずだった。だが、イルカたちは、一頭もカタオカの元には寄ってこなかった。カタオカ一人が個人的に手を挙げ、個人的に笛を鳴らし、個人的にそのポーズのまま静止しているようだった。そして状況はまさにその通りだった。焦ったカタオカは傍のバケツを取り、イワシをイルカたちに投げた。イルカは誰もそのイワシに飛びつかず、イワシは海面にボチャンと音を立てて落ちた。するとヒマワリがそのイワシを海中でキャッチし、平らげた。カタオカは目を疑った。昨日までのイルカたちの動きではなかった。その動きはイルカというよりも大型の回遊魚のように感じられた。カタオカは気づいた。

 イルカたちからコミュニケーション能力が失われていた。

 カタオカは、もう一度、ピッと笛を鳴らし、右手を高く上げた。反応するイルカはいなかった。リボンは気持ちよさそうにうっすらと目を開けてぷかぷかと浮いていた。

 カタオカは大きくため息をついた。欠けたものは彼らと自分との間の言葉だった。プルートとコメットはまだじゃれ合っている。イルカ同士のコミュニケーションは問題なく行えているようだ。彼らが失ったものは、人間との会話能力だった。

 カタオカは口にくわえていた笛を外し、そのままポケットに突っ込んだ。そしてプールサイドに腰を下ろし、しばらくじっとイルカたちのおよぐプールを眺めていた。彼らの頭に開いた呼吸孔から甲高い声がこだました。だが、それは昨日まで何度もカタオカを呼び止めた声とは何かが違った。その音が自分に向けられていないことだけがカタオカには分かった。声は波間に吸い込まれ消えていった。彼らの体の表面は恐ろしく滑らかで美しかった。

 その夜、ひとつのニュースが各国のメディアを占拠した。世界中のイルカたちが突然、ショーを行わなくなったのだ。世界中の海洋学者が集められこの現象に関して会議を行ったが、謎を解ける者はいなかった。ありとあらゆる人間が胸を痛め絶望した。ある国の大臣が話の通じなかった野党の党首をまるで今話題のイルカのようだ、と揶揄し、免職させられた。世界中の子供たちがイルカへの手紙を書き、それをメディアが取り上げた。イルカと人類を結び直す国際会議が設立され、世界有数の富豪たちが資金を提供しこの問題の解決への糸口を模索し始めた。世界的なミュージシャンが発表したイルカへのラブソングは世界中で大ヒットし、その売り上げはイルカと人類の絆を取り戻すためのファンドに寄付された。

 世界中がイルカの喪失に心を空っぽにした。

 3ヶ月の月日が流れた。カタオカは夏の伊豆が水平に引いた一本線の海を見ていた。南中に差しかかる直前の日差しを浴びた駿河湾は健康的な青を一面に広げていた。その反対側には相変わらずコンクリートで造成されたイルカのプールがあった。12頭のイルカたちは思い思いに泳いでいた。

 あの日以来、カタオカはイルカショーの担当から外れた。ショー自体が無くなったのだから当然だった。今はアシカの担当になっていたが、毎朝イルカたちの健康チェックと給餌を行うのはカタオカの仕事だった。逆に言えば1日を通してイルカに関する仕事はその2つだけだった。だがカタオカは12頭が変わらず毎日元気であることが分かればそれだけでよかった。ときおり、試すように笛を吹き、右手を上げてみることもあったが、あの日からイルカは一度も反応しなかった。

 休憩時間が終わろうとしていた。カタオカはイルカたちを見ていた。水面をたゆたっていたヒマワリと目が合った。まるで笑っているようだった。カタオカとヒマワリはしばらく見つめ合っていた。

 何を考えているんだ?とカタオカは心の中で呟いた。

 ヒマワリの目は何も変わらず、カタオカをじっと見ていた。

 何を考えてきたんだ?カタオカは質問を変えた。

 そして、その言葉がイルカたちに向けられているのではなく、自分に向けられていることに気づき、顔を上げた。

 ヒマワリはまだぼんやりと水面に浮き、くるりくるりと半身をよじらせていた。

 イルカとは何だったんだ?

 カタオカは、イルカたちの食べ終わったイワシが入っていたバケツを持ち上げ、アシカの檻へと向かった。

 背後で呼吸孔から発された高い声が空間を軋ませた。だがそれがカタオカを呼び止める声でないことは彼には分かっていた。



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