枝

【短編】「2003-2009」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 057

2003
猫は言った。「キミの考えていることはすべてお見通しさ。つまり、世界を完結させたいわけだ」そう言って猫は退屈そうに大きなあくびをひとつし、コンクリート塀の上で伸びをした。「なんらかの方法でね」日曜日の午前中、渋谷から近い此処らの住宅街は静かだ。遠くで犬が一匹鳴いている。どこかで子どもたちがキャッキャと笑う声が聞こえる。梅雨に入る前の東京の空気は乾燥していて穏やかだ。ラジオの天気予報が言っていた。「今日も太陽はテキトウに軌道を描くでしょう」この街に住んで五年が経つ。頬をなでる風はまだ冷たい。だが暑くなりそうだ。猫は樫の木の木陰に入りうたた寝を始めている。「まあ、好きにするがいいさ」猫はボソッと付けたし姿勢を変えた。笑っているようにも見えるが、悲しんでいるようにも見える。今日三本目の煙草に火をつけて向かいの敷石に腰をかける。空を見上げると大きな飛行船が車の広告を貼り付けてゆっくりと旋回していた。飛行船を見るとその日いいことがありそうな気がするのだが、気のせいだろうか。

2004
毎年、夏になると何か楽しいことが起きそうな気がしてワクワクするのだが、この歳になると楽しいことのひとつやふたつは自分でヨイショヨイショとつくらなければならないことくらい分かってきた。そんなわけで海を想像する。会社の13階の会議室から見える夏の青空は嫌味なほど碧く楽観的である。例によってマッキントッシュのキーボードをチクチクと打ちながら考えているのは海のことで、目の前のコンテもどことなく肩身がせまそうである。東京は海が遠い。会社の33階に上がるとこれでもかというくらい大盛りの東京湾が眼下に広がるが、あれは幻だ、たぶん。そんなこんなで日曜日の海は今日もオアズケとなり太陽は果てしなく高い南中高度を通過し関東山脈の向こうへサヨウナラ。東京のスカイラインは恥ずかしいくらいの赤紫色に染まり、あっという間に漆黒がやってくる。夏の夜空は密度が濃いので超高層の灯りがきれいだ、なんて考えていたら大きな光の輪が夜空に散った。今日は神宮の花火大会だ。まったくそんな日に何をやってんだか。チクチク、チクチク。

2005
「あるいは、キミはすこし勘違いをしているかもしれない」ボリス・ヴィアンを読んでいる夜だった。窓の外では渋谷の超高層ホテルが赤い警告灯を点滅させながらゆっくりと呼吸をしている。「退屈を押しつけられても困るんだよ」猫は鋭い眼光を光らせベランダの手すりの上をしなやかに歩いている。「そんなものさっさと犬にでも喰わしちまいな」そう言って猫は何かを見つけひらりとベランダから飛び降り闇の中に消えた。風が吹き込みカーテンを揺らした。静かな夜だったが雲の動きは速かった。小説の中では主人公が労働を放棄し破滅へ向かう場面が描かれていた。遠くの国道を走る車の音が空気をわずかに振動させている。「夜は危険だ。ニンゲンの曖昧なモノを大きく膨れあがらせる。ヤツらはいつもキミのハラワタを狙っている」どこかから猫の声が聞こえる。鈍く光る雲が満月を隠し始めている。「急いだほうがいい。退屈している時間なんてこれっぽっちも残されちゃいないのさ」小説の中では、主人公の肺の中で美しい蓮の花が咲き始めていた。

2006
平日の図書館は比較的すいているので、いつもの席に座って本を読む。会社で本を読んでいるとなんとなくサボりという感じがして悪いことをしている気になるが、図書館で仕事をすれば途中で本を読んでいても「休憩」ってことにしかならないのでどうどうと本を読める。我ながらいいアイデアである。仕事に区切りをつけ、あまり美味しいとは言えない食堂のカレーライスを胃袋におさめ、隣の喫煙室で煙草に火をつけ大きく息を吐く。機械式の自動販売機の手がガッコンと落としたカフェモカの甘さがたいして使ってもいない脳にしみ込む。脳は一時間に五グラムのブドウ糖を必要とする。目の前に並ぶ大学生のカップルは卒論を書いているのだろうか、楽しそうにコソコソ話をしている。左に座るオジサンは毎日同じ机で伊勢市の歴史を調べている。地図室にいる司書の女性が足を組んでけだるそうに白煙を吐き出す。クリエイティブディレクターからの催促メールに返信する。「すみません。コピーできてるんですけど、今まだプロダクションにいて…」もちろん、嘘である。

2007
「ミース・ファン・デル・ローエの言葉を知っているかい?」深夜のジョギングを終え、公園で息を切らせていると、猫がゆらゆらと忍び寄ってきた。「これまでに最も困難だったことはなんですか、という学生の質問に対する答えなんだが」一台の50ccがバタバタと音をたてて通り過ぎる。「『変化に対する恐怖心を克服することだ』」全力で走ると体中の細胞が悲鳴をあげる。人間が肉体と精神に分かれていることを本能的に理解する。全身から汗が噴き出し、呼吸器が酸素を夢中で取り込み、心臓が狂ったように暴れる。「ミースはね、この質問に答えるのに20分間沈黙したそうだ」無調整の牛乳を喉に流し込むと、冷たい液体が食道と胃の場所を明確に教える。「その質問に答えるのが最も困難だった、という冗談ではないけどね」猫がベンチの上に飛び乗る。牛乳パックを傾けて座面に白い液体を広げると、猫はそれを美味しそうにぺちゃぺちゃと舐めた。「分かるかい?大切なのは変化さ。キミのその肉体のようにね。ごちそうさま。」そう言い残すと、猫は茂みの中にふっと消えていった。

2008
天才というのは、理由なくアイデアを思いつく人のことらしい。インスピレーション。アイデアが降ってくるものなら、天気予報のように毎晩アイデアの降ってくる確率を教えてもらいたい。「明日も降水確率は0%でしょう」凡才の頭の中は、雲一つなく晴れ渡っている。鳩のフンのひとつでも降ってくればサマサマなのだが、今日もそんな気配すらない。コンテは相変わらずの白紙。打ち合わせまでの時間は、すでにロスタイム。そんなときどうしようもなくシャワーを浴びる。雨が降らないので自分で蛇口をひねるのである。凡才の雨乞い。それでも目を閉じて神様に一生懸命お願いしていると、暗闇の中に一滴。ぽつり。ということもある。ありがとう、神様。いただいた一滴を大事に使って、コンテをつくる。会議で提案。あっという間にボツになる。天才は99%のなんとかと1%のなんとかで…というあれは確実に嘘である。天才は100%の降水確率でできている。

2009
「あのころは、いい時代だった」相変わらず猫は、樫の木の木陰で大きなあくびをしながら寝返りを打っている。「いろいろあったけどね」三年ぶりにこの街に戻ってきた。猫の姿はほとんど変わらない。「ところで、世界は完結したのかな?」「完結するわけないだろう、映画じゃないんだから」そう言うと、猫は笑った。「まあ、すこしはマシになったってことか」いつのまにか向いの駐車場にはマンションが建ち、世界は狭くなった。おかげで空洞を探すのに苦労をする。「さあ、時間だ。もう、いくよ」猫はいつのまにか姿を消し、影だけになっている。「行く場所を決めない、というのも、ひとつの決断だ」「しばらく会えないかもしれない」もう、猫の影はどこにあるのか分からない。「人は、人の世界に生きるべきだ」猫の声だけが聞こえるが、ただの鳴き声かもしれない。午前中の太陽はまだ東に傾いている。今日も予定のない一日が始まる。住み慣れた街の通ったことのない道をテキトウに選ぶ。見たことのない景色なんてものは意外と近くにあると思うのだが、どうだろう。

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