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【短編】「ema」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 026

 吉澤エマが自分がものを忘れられないことに気づいたのは3歳4ヶ月と26日目のことだった。

 曇り空の冬至に近い休日の午後だった。母は高校時代の友人を家に招き、自分を適当にリビングで遊ばせ、世間話をしていた。彼女がどういった文脈で発したのかは分からないが、この子、最近、絵を描くのが好きみたいで、それはいいんだけど、なんでもかんでもオレンジ色で描くのよ、と友人に語った。クレヨンはオレンジ色ばかり減るの。子どもって不思議ね、とコーヒーを飲みながら言った。エマはなるほど、と思った。たしかに私は花でも猫でもイルカでも、なんでもオレンジ色で描く癖をもっている。だがどうして母はだいだい色のことをオレンジ色と呼ぶのだろう、と不思議に思った。紙でできたクレヨンの柄にはだいだいいろ、と書いてあった。それを母はオレンジ色と呼んだ。どうして母はだいだい色と呼ばず、オレンジ色と間違えた呼び方をするのか。

 その後、周りの人間たちがそんな間違いを平気で繰り返しながら過ごしていることに気づいた。パンにバター塗る?と母は聞くが、それがマーガリンという名のクリームであること。水族館、楽しかったね、と言われるが、施設の入り口やパンフレットにはすいぞくえんと書いてあったこと。そのたびに間違えを指摘すると、周りの大人たちは、エマちゃん、すごいね、よく覚えてるね、と驚き、頭を撫でて褒めてくれた。

 だがそのうち、あまりに大人たちの間違える回数が多いことに気づき、その度に間違えを指摘すると、聞こえているはずなのに聞こえないふりをされたり、いいの、いいんだよ、と流されたりするようになった。大人たちが自分のことを面倒くさい指摘をする子ども、と見做していることを感じた。それからエマは大人たちの間違えを指摘することは止めた。

 次に面倒なことになったのは小学校のテストの時間だった。すべてのテストが100点だった。授業中に言われたことを書けばいいだけなのに、どうしてみんなわざと間違えたりするのだろう、と不思議だった。つねにすべてのテストが100点だったので、母が教師に呼び出され、カンニングを疑われたことがあった。小さな部屋で教師と母からお友だちの答えを見たことはある?と聞かれたエマは、どうしてそんなことを聞くのだろうか、と全く理解できずに、ない、とだけ答えた。その後、エマは100点を取ると面倒なことしかないことに気づき、すこしだけ空欄を残したり、わざと間違えて答案を提出したりすることにした。それ以降、問題になることはなかった。なるほど、友人たちはだからわざと間違いのある答えを書いていたんだな、と納得した。

 エマが自分の記憶力の異常を自覚するのは、その4年2ヶ月と6日後の10歳の頃である。

 その後、なるべく社会から異常として見られないように振る舞い続けたエマは、それなりの、といっても一般的に見れば尋常ではない経歴になるのだが、学位を納め、国家研究機関の研究者として平穏な生活を送っていた。ある程度の間違いや勘違い、思い違いをうまく演じながら適度に正しい仮説を打ちたて証明し発表することが自分を厄介事に巻き込まない最善の方法であるというのが信条だった。

 その夜、エマたち研究室のメンバーは、国際論文提出の打ち上げで大きな街の居酒屋に集まっていた。全部で15人ほどの男女が卓を囲んでいたが、一人がまだ来ていなかった。カナメという博士課程の男子学生だった。誰か、カナメに連絡してみろよ、とチームリーダーのヨコザワが言った。だが、その時に全員が言葉を失った。カナメは携帯電子端末をもっていなかった。彼は翌日から研究室に姿を現さなかった。

 カナメは消えたのだ。どこからも。

 その日の深夜午前2時26分に事件は起きた。この国のサーバーに登録されているすべてのIDがハッキングされ消去された。メディアの発表によると事件の犯人は17歳の少年がプログラムしたAIだった。天才的なプログラミングのスキルを持つノエルというハンドルネームの少年は人間の記憶の忘却システムのプログラムをコンピューター上に置き換え自生させるシステムを学習型AIに組み込み国のサーバーに攻撃を加えた。国のデータ防衛プログラムは何世代もアップデートされておらず、6段階にバックアップが取られていた全国民のIDデータはいとも簡単に消去された。

 政治的な糾弾と社会的混乱の幕開けだった。国の根幹に関わるデータを電子管理することのリスクをそれみたことかと野党やメディアが指摘した。あらゆる手続きが滞り自身を証明することができなくなった人々が溢れかえり都市は極度の混乱状態に陥った。

 その日の早朝、郊外の住宅街で殺人事件が起きていた。どこにでもある20代の男女の痴話げんかが発端だった。返り血を浴びた男は憔悴しきった顔で出頭した。警察官は事情を聞き、男を殺人容疑として逮捕しようとした。だが警察官は固まった。今、目の前で自供したこの男の身元を証明するデータがなかった。警察が逮捕をできないことに気づいた瞬間だった。
 
 国家非常事態宣言が発令されたのはその日の午後だった。 
 
 研究室のエマは憂鬱な気分で曇天の空を眺めていた。後輩のリョウスケが、なんか大変なことになってますね、と話しかけてきたが答える気にはなれなかった。僕が僕であるという証拠が無くなっちゃったって、すごいことっすよね。リョウスケは座椅子をくるくると回しながら他人事のように呟いている。

 エマはため息をつき、自身の電子端末を開いてデータを眺めていた。おそらく今回の国家的大事件の犯人はノエルという愉快犯の少年ではない。それが昨日消えたカナメの仕業であることに間違いはないだろう。17歳の少年は国家とメディアに仕組まれたスケープゴートだ。おそらくノエルという少年自体も実在しない可能性が高い。

 エマは自分の研究ファイルのひとつをプロテクト解除し睨んだ。それはAIの記憶作成プログラムに関する研究だった。人間の記憶と忘却のシステムをアンドロイド用のAIプログラムに正確にトレースするためのプログラムだった。基幹プログラムはエマ自身の脳をサルベージしていた。絶対に忘却しないシステムを忘却するためのプログラム。それが彼女の開発したプログラムだった。

 私が盗まれたのだ。

 カナメはおそらく私のことを知っていた。カナメという名だった青年は今どこにいるのだろう。そして彼は何をしたいのか。

 小学生の頃、まわりの子どもたちがどうして間違えた答えを書くのだろうと純粋に疑問に思ったことを思い出した。どうして人はわざわざ間違えを生み出すのか。

 エマはカナメのすべての言動を思い出し、おそらくこの研究室でつく最後のため息を一つつき、席を立った。

 早退ですか?なんか研究所もてんやわんやですもんね。台風が来て臨時休校になった時の小学生のようなリョウスケの声をシャットアウトするように、エマは研究室の扉を閉じた。

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