【短編】「名前屋」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 058
残雪の残る小さな駅で降りた。
「曖昧」という駅だった。
特急の停車する中央駅から乗り継いで二時間ほど。ディーゼルの匂いのする車両から解放され外気を吸った。北国らしい冷たく湿った空気が肺の中身を入れ替えた。僕は伸びをして固くなった背筋をほぐし、リュックを肩にかけた。ミニチュア模型のようなこぢんまりとした改札を通ると駅前は思いのほか栄えていた。いかにも昭和を彷彿させる土産物屋が並んでいる。
首から提げたレンジファインダーのキャップを外し、宛も無く歩いた。窒息しそうな平日から思い立って逃避した土曜日だった。週末の時間は土曜日の午前中がいちばん透き通っている。どんな天気であれクリアだ。続いて土曜日の午後、日曜日の午前、午後、と順に濁ってゆく。
アーケードが目に入った。「曖」「昧」「商」「店」「街」。錆び付いた看板は退色していていたが僅かに緑と赤のコントラストを留めていた。僕はファインダーをのぞき、文字の発する昭和の名残を丁寧に切り取った。
立ち並ぶ店はほとんどが曖昧な店だった。肉屋や魚屋など、地元の人が使う店も並んでいたが、売られている肉や魚の種類は曖昧だった。肉屋の軒先でメンチカツが売られていた。芳ばしい脂の匂いに惹かれ、ひとつ注文した。売り子の女性は肉の神様のような笑みで、脂の染みた紙に満々と挟まれたメンチカツを渡してくれた。湯気が立ち上る熱い塊を恐る恐る齧ると肉汁が溢れた。味わったことのない食感と香りだった。人生で食べたメンチカツの中でも飛び抜けて美味しかったので、何の肉ですか、と聞いたら、女性は、さあ?と笑顔で答えてくれた。
商店街の時計が正午と三時の間で、鐘を五、六回鳴らした。長調と短調の入り交じったチャイムがアーケードに響いた。小学生の頃聴いたメロディのような気もしたがはっきりとは思い出せない。半透明のアーケードから透過する光は商店街を金魚鉢の底に沈めたように歪めた。美しい光だった。僕はシャッターを切った。デジタルのCMOSセンサーに記録されたJPEGは色調が定まっていなかった。
その古本屋は洋服店と時計店に挟まれ、まるで鞄の中で潰れてしまったサンドウィッチのような佇まいで存在していた。
「名前屋」という変わった名前の店だった。本当はその雰囲気を写真に収めたくて中に入ったのだが、その邪な目的が店主に伝わらないよう、適当に古本の一つを手に取った。中原中也の本だった。
ぱらぱらとめくってみたがすべて白紙だった。
落丁にしては大胆な一冊だった。コレクターの間では価値がつくのかもしれない。予想通り裏表紙に貼られた値札には驚くような値段が書かれていた。僕は本に傷がつかないように気をつけて、そっと棚に戻した。
学生の頃好きだった写真家の写真集を見つけた。時代の寵児のような存在だった。自分と同世代の彼に羨望を感じた。同時に自分の凡才を知った。写真家として生きてゆく自信を失うきっかけになった存在でもあった。自らの挫折と懐かしい思いに駆られ、重いハードカバーを手に取りページをめくった。だがその本もすべてのページが白紙だった。
僕はその隣に積まれていた本を開いた。思った通りその本もすべてのページが白紙だった。
僕は店の奥まで静かに歩き店主を捜した。しなびた木目調のカウンターに地蔵のような老人が地蔵のような表情で地蔵のように座っていた。
「すみません」
「はあ」
老人は傾いた老眼鏡を僅かに戻しながらゆっくりとこちらを向いた。老人は地蔵ではなかった。
「ここに売ってある本ですが」
「本?」
「すべて白紙の本を集められているのですか?」
「本なんか売っていませんよ」
老人はしゃがれた声を漏らした。僕は狐に摘ままれたような気持ちで切り返した。
「売りものじゃないんですか?」
「売っているのは「名前」ですよ」
「「名前」?」
「うちは「名前屋」です」
「「名前」を売っているんですか?」
「ええ、お好きでしょう。みなさん」
「何がですか?」
「「名前」をお売りになるのが」
老人は笑ったように見えたが不機嫌なようにも見えた。表情筋の動きは曖昧だった。
「売れるんですか?何も書かれていない本が。いや、「名前」が」
「売れますよ。いつの時代も、売れますとも。昔よりも売れますよ。そのあたりなんて、全部、私なんかは全く知らない名前ですけどね、インターネットっていうんですか?若い人たちの間で、ずいぶん売れているそうですよ」
僕はカウンターの前に積まれている文庫サイズの本、いや、「名前」を手に取った。表紙には近ごろソーシャルネットワーク上でカリスマ的な存在になっている若い実業家の名前が印刷されている。中は開かなかった。白紙なのだ。もう分かっている。その棚には同じような煌めかしい名前の作者の本、ではなく、「名前」が並んでいる。
「どんどん、出てきてね、どんどん、売れます。いつの時代もね」
老人は笑っていた。お供え物を山のように積まれた地蔵のようだった。
「あなたもお売りになりますか?お名前」
「いえ、僕は。その、なんというか、大丈夫です」
僕はそれ以上、何も言わず、店を出た。
狭い出入り口の脇に並んだカートには、山積みにされた「名前」たちが風に晒されていた。表紙は退色し紙は土色にくすんでいる。その一冊を手に取ってみた。小さな写真集だった。作者は聞いたことのない名前だった。僕はなかなかその写真集を手放すことができず、店に引き返した。
地蔵のような老人は先ほどと全く変わらない角度でカウンターの奥に座っていた。あるいは地蔵だったのかもしれない。
「めずらしいものをお選びになる」
老人が薄い紙袋に入れてくれた写真集を抱え、僕は硬貨を2枚渡した。
「どうも、ありがとうございました」
深々とお辞儀をする地蔵を背にして、僕は「名前屋」を後にした。
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