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【短編】「妥協の花」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 046

 大きな河を渡った。

 定員80人ほどのモーター音の静かな船を降りるとターミナルは思いのほかごった返していた。土産物屋や簡単な食事をとれる飲食店がコンコースの両脇に並んでいる。

 三途の川を渡るのは、当たり前ではあるが一生に一回なので、多くの人は土産物のひとつでも買いたくなるのだろう。

 私はそれらに特に興味もわかず、コーディネーターに言われた通りに冥界空港を目指すためにバス乗り場に向かった。

 ターミナルを出るとバスはちょうど出発したところで、次の出発時間まで40分くらいあった。構内に戻る気にもならず、辺りを散歩することにした。

 春風が心地よかった。初めて訪れた土地だったが見渡す限りの田園風景が広がっていた。大きなビルや商業施設のようなものは見当たらない。

 5分ほど歩いてみたが風景にほとんど変化はなかった。まるで子ども向け昔話の挿絵のように単調な町だった。

 このまま歩いていても何も見つからなそうだったのでバス乗り場に引き返そうと思ったところ、土手の向こうに美しい花畑が広がっていることに気づいた。

 背丈くらいの高さの緩やかな土手を上ると見たことのない美しい花が一面に咲いていた。薄紫色の儚い花だった。

 ちょうどそばに農家の男性がいた。50歳前後だろうか。浅黒く焼けた肌に白髪の混じった無精髭。慣れた手つきで水を撒いている彼に私は声をかけた。

「美しい花ですね」

「ああ、船で来らしゃった方?」

「はい。バスを待っていて」

「この時期はよく咲きますよ。春ですから」

「なんという花ですか?」

「妥協です」

「妥協?」

そんな名前の花は聞いたことがなかった。

「ええ、妥協の花です」

「初めて聞きました。」

「そりゃそうでしょう。こっちの世界にしか咲いてませんから」

「ああ、そうなんですね。」

「この花はあっちの世界の人がひとつ妥協をする度に咲く花です。第二志望の学校を選択したり、一番好きだった人と結ばれなかったり」

「こんなに美しいのに」

「美しいんですよ。花は結果です。結果的にね、綺麗なんです」

「私も、まあ、妥協だらけの人生でしたが、振り返ってみるとなぜだか悪くないものだなあって、思います」

「そうでしょう」

「第何志望でもね、入ってみたらいい学校だったり、結ばれてみたら案外、相性のいい相手だったり」

「それが、妥協です。みーんな、美しいもんにしたがるんです。私はそれでいいと思っとります。世話をしとるとほんとにみーんな美しいんです。これなんかも、ほら、せっかくだからどうぞ」

 そう言って男性は一輪を摘み、私に差し出した。この花は誰の、どんな妥協だったのだろう。

 そっと鼻に近づけると懐かしい匂いがした。

 もう二度と戻ることのない過去の放つ妥協の匂いだった。

 私は、バスの窓から遠くに離れてゆく妥協畑の風景を目に刻みながら冥界空港へと向かった。

 妥協だらけの人生だった。あの畑の中に、私の花は何輪、咲いているのだろうか。そう考えると自然と笑みが漏れ、私は手の中の一輪の香りに心をうずめた。

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