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【短編】わすれもの _Simplicity of the world, Complexity of the life. 092

 冷たい酸素が肺胞を満たす。勾配のきつい坂道の先にレンガ造の正門が見えた。受験生たちが血液の中を流れる赤血球のようにゆっくりと吸い込まれてゆく。一年前に見た光景と変わらない。また、ここへ来た。二月の乾燥した空気の中を白い吐息が遊泳する。三浪、という言葉は、最初は袖を通すのに躊躇があった。だが、今は着慣れたセーターのように私の身体にフィットしている。後悔はない。

 「今年も浪人するの?」「何考えてるんだ」「他の大学じゃだめなのか?」「東大とか京大、じゃないんだよね?」「大変だね」「偏差値、下げたらいいのに」「今の時代、他に楽しいことあると思うよ」「変わった人だ」

 ありとあらゆる心の声を聞いた。だが不思議なことに皆の口から出てくる声はひとつだった。

 「がんばってね」

 試験開始の一時間十五分前に正門に着いた私は、カバンから受験票を取り出した。忘れ物がないか、最終チェックをする。地方都市から飛行機と電車を乗り継いでやってきた私のホテルは最寄駅の駅前。最悪の場合、歩いて取りに帰ることができる。受験票は、サンリオのキャラクターがプリントされたクリアファイルにきちんと挟まっていた。高校時代から苦楽を共にした戦友。もふもふのキャラクターは受験票と半透明に重なりながら、愛らしい笑顔を送ってくれている。つぶらな瞳の奥から心の声が聞こえた。

 「他の大学じゃだめなのか?」

 いやいや、そうじゃないだろう。私は無理やり可愛い顔にアテレコする。

 「応援してるよ、がんばってね」

 「うん。がんばるよ」私は笑顔を返す。

 受験票を取り出し、そこにプリントされた文字を確認する。

 受験番号230778、名前、

 名前、

 名前、名前、

 名前が、ない。

 どこにも。

 私は、名前を忘れた。

 血の気が引いた。遊園地の自由落下式のアトラクションに乗った感覚。いや、落下していた。足元の地面に大きな穴が空き、私は闇の中を無限の底まで落下した。一秒が永遠と化し視界が歪む。先刻まで讃美歌を歌っていた晴朗な冬空はサルバドールダリのタブローのように歪曲している。

 ホテルに、戻らなければ。昨日のチェックイン時には、名前はあったはずだ。踵を返し、坂道を早足で下る。本当は走りたいが、転ばないように急ぐのがやっとだ。涙が溢れそうになる。ぐっとこらえた。これから入試本番なのだ。泣いている場合ではない。

 どこでなくしたのだろう。名前。私の名前。大きな交差点を二回曲がり、横断歩道を四つ越え、ホテルに駆け込む。

 「1107に宿泊している、」

 フロントで事情を説明しようとしたが、そこで言葉に詰まった。

 「1107に宿泊している、1107に宿泊しているものですが」

 仕方なく、私は「1107に宿泊しているもの」として語りかける。ショートカットの若い女性スタッフが、わずかに口角を上げ、顔を五センチ前に突き出して応対する。
 「はい」

 「名前をなくしてしまいまして、もしかしたらフロントに届いていないかと」

 「少々お待ちください」
 女性は暖簾で仕切られているバックヤードにすっと消えたかと思うと、すぐに戻り、
 
 「こちらには届いていないようです」
 と、申し訳なさそうに説明した。

 「ありがとうございました」

 私は急いで部屋に戻る。今しがた出かけたばかりの部屋はバスタオルとアメニティが散らばり、シャンプーの香料を含んだ空気がこもっている。きいいいん。無音のあまり、するどい耳鳴りだけが耳をつんざく。硬いシングルベッドに張り付いた掛け布団をめくり、枕の間をまさぐる。スーツケース、小さなデスクの上、参考書の脇、洗面所、ゴミ箱の中、ベッドの下。ありとあらゆる場所を探したが、名前は見つからない。財布からクレジットカードや病院の診察券を取り出し、一枚一枚、すべて確認したが、そこに名前はなかった。

 私はベッドに腰掛け、時計を見た。試験開始まで四十五分。もうきっと、名前は見つからないだろう。

 名前、名前、名前。

 名前を、忘れないようにね。

 小さな頃から、母に言われ続けた。持ち物には、きちんと名前を書いておきましょうね。言われた通りに、名前を書いた。カバンにも、下着にも、うわばきにも、鉛筆の一本一本にも。気をつけて生きてきたつもりだった。人一倍、飲み込みが悪く、何をやるにも時間がかかる私だが、名前を忘れたことは一度もなかった。そんな私が、あろうことか、一番名前を忘れてはいけない日に、名前を忘れてしまった。

 もしも名前を忘れたら、どうなるの?

 子供の頃、母に聞いたことがある。あのとき、母は何と答えたのだろう。覚えていない。

 私はこれからどうなるのか?まず、試験は受けられない。帰りの飛行機にも乗れないだろう。チェックインができない。電車を乗り継いだとして、家に帰ったら何と言おう。三回目の浪人生活を認め、応援してくれた母に合わせる顔が、いや、名前がない。

 世界と噛み合う歯車をなくした気分だった。小さな窓から見える空も、ブロックのように積み重ねられた都市に生える巨大なガラスの箱も、その隙間でキリンのようにゆっくり動くクレーンも、なにもかも、自分との接点が生じない連立方程式の交わらない線に感じた。

 考古学、やりたかったな。

 私が目指していた学部は日本の古代史を専門とした学部だった。縄文弥生時代を経て、古墳時代と呼ばれる豪族の時代から、聖徳太子がいたとされる飛鳥時代まで、日本史は百五十年間の暗闇に包まれる。古事記、日本書紀が編纂されるまで、日本の古代を知る手がかりは当時の大陸の文献に頼らざるを得ないのだが、その時代の日本に関する記述が存在せず、当時を知る手掛かりがない。
 
 私は、その暗闇に魅了された。確かに存在しているのに、誰にも姿を見せない時間。地元の小さな湾の海底に水深一万メートルを超える海溝が存在しているような不思議。私のご先祖さまも暮らしていたわずか千五百年ほど前の手が届きそうな過去を包む黒い幕。その幕をめくってみたかった。

 だがそれも叶わぬ夢と化してしまった。
 
 荷物を畳もうと決め、スーツケースを引っ張る。ポリカーボネートの躯体が机の足にぶつかる。机の上の参考書をまとめ、スーツケースを開け、二日分の着替えの隙間に入れる。その時、ふと、一冊の文庫本が挟まっているのに気がついた。

 『みだれ髪 与謝野晶子』

 以前に小旅行をした際、空港の書店で買った本だった。スーツケースから取り出すのを忘れていたらしい。こういった本にありがちなことだが、いちども読まずに存在自体を忘れていた。申し訳ない、与謝野晶子。

 与謝野晶子。

 よさの、あきこ。

 名前だ。

 私は、名前を見つけた。

 なくした名前は見つかりそうにない。どこを探してもなかった。私の名前は失われたのだ。この歯車の噛み合わない世界から。

 そして今、新しい名前を、私は見つけた。与謝野晶子。

 「よさのあきこ」

 私はその六音を震える唇の間から静かに洩らし、筆箱から取り出したボールペンで受験票の名前欄にゆっくりとインクを刻みつける。

 与、謝、野、晶、子。

 今日、今、この瞬間から私は、与謝野晶子だ。

 筆記用具をカバンに入れ、受験票をキャラクターのクリアファイルにしまう。キャラクターが笑顔で語りかける。

 「がんばれ、晶子」
  
 「うん、がんばる」私は笑顔で答える。

 急ぎ足で部屋を出る。フロントにはショートカットの女性が立っている。私は彼女に伝える。

 「1107号室の与謝野晶子ですが、お部屋の清掃をお願いできますか」

 「かしこまりました」
 女性は、口角を少し上げ、笑顔で答える。

 私は、もう一度、はっきりと伝える。私が私であることを確かめる。
 「1107号室の与謝野晶子と申します」

 「与謝野晶子様、承りました。いってらっしゃいませ」

 横断歩道を四つ越え、交差点を二回曲がる。急な坂道を足早に上ってゆく。レンガ造の正門が見えてくる。私は息を整える。スマートフォンを取り出し、大きく深呼吸をし、母にメッセージを送る。メッセージアプリの自分の吹き出しにはゴシック体で「与謝野晶子」と記されている。

 与謝野晶子:「今から、がんばってきます!」

 私は、正門をくぐる。受験会場の校舎が見えてくる。春からこの場で考古学に邁進する自分を強くイメージした。大丈夫だ。ゆっくり、一歩一歩、呼吸を整えながら歩く。

 その時、とつぜん、後ろから声をかけられた。

 「おう、島田」

 振り返ると、同級生の吉本誠司が近づいてきた。

 「お前も、ここ受けてたんだ。知らなかった。がんばろうな」

 「すみません。私、与謝野晶子です」

 「え」

 動揺する同級生に事情を説明している時間はなかった。もうすぐ試験が始まってしまう。

 「何いってんだよ、島田。お前、島田実加だろ?」

 吉本が困惑している。ひきつった顔面にほっそり切れ込まれた唇が静かに振える。「与謝野、さん?」
 ブブブブ、と、スマートフォンが振動する。母から返信メッセージが届いていた。画面をスワイプする。丸みを帯びた吹き出しの中で風船の形をしたひらがなが踊っている。

 母:「がんばってね、晶子!」

 熱い思いが込み上げてくる。大丈夫だ。私はもう一度、念を押す。この世界の歯車が一段、ガチャン、と音を立てて廻る。

 薄い蒼色に煌めく二月の酸素を胸いっぱいに吸い込み、晶子はゆっくりと歩を進めた。


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