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【短編】「焔書夜」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 091

 那津美がそのニュースに触れたのは、ある秋の下校時。電車に揺られながらNHKFMラジオの6時のニュースを聞いている時だった。有線ヘッドフォンから彼女の鼓膜を振動させた音声によれば、先週の日曜日に起きたフランスのとある図書館が全焼した事件、その発火元をフランス当局が調査したところ、それが一冊の本によるものだと特定された、という内容だった。発火元はホルヘ・ルイス・ボルヘスによる著作、『El jardín de senderos que se bifurcan (1941)』であったことが判明したという。

 ニュースキャスターは冷静な口調で手元の原稿を読んだ。-フランス当局によれば、何者かによる放火の可能性が高いとし、捜査を進める方針です。しかしながら現場の監視カメラや、警備員らの証言によれば、現在のところ、侵入者の姿は認められておらず、どのような原因で書架に収まっていた一冊の本が発火したのかは以前謎につつまれており、慎重に捜査を進める方針です。また、この事件が先月から世界中で多発している図書館の連続放火事件となんらかの関連性があるのではとの見方を示し、慎重に捜査を進めるとともに、事件の起きた国家間で情報を共有し、緊密な連携の元、図書館の厳戒態勢を強化する方針です。つづいてはスポーツの話題です。-

 那津美はラジオの電源を切り、ヘッドフォンを機体に巻きつけ鞄にしまった。先月に起きたローマの図書館放火事件の発火元はたしかゲーテの『ファウスト第一部(1808)』だったな。犯人の趣味がなんとなく分かる気もしたが、犯人は誰か、という予想を那津美は人に話す気にもならなかったし、話す相手もいなかった。

 那津美はFMラジオをしまった鞄から高校の図書室で借りた本を取り出し、ページを開いた。この日借りた本は1970年代にデビューした芥川賞作家が1995年に書き下ろした小説で、筆者のもつドライで鋭い文体と、この時代特有のワープロで書かれた速度による読後感が好きだった。

 那津美は読書中毒といえばそれまでなのだが、子供の頃から異常に本を読む習性があり、高校生になった今では一週間に十冊ほどのペースで本を読んでいた。いつしか本の人格のようなものを感じるようになり、手元に一冊の本があれば、その本と何時間でも会話をすることができた。この日、那津美は読んでいる小説から、「小説の内容とは別の」メッセージを感じた。それが何なのかは分からなかったが、一種の警告、のような不思議な気配を感じた。そのせいか、珍しく那津美は読んでいる小説の内容があまり頭に入って来ず、本を鞄にしまった。鞄の中には同じく高校の図書館で借りた別の小説、それも1990年代の日本の小説家によるもの、が一冊入っていたが、その小説は怯えのような気配を発しているように感じた。那津美は物心ついた時から肌身離さず家族よりもそばにいた本たちからこんな不穏なものを感じたのは初めてのことで、蜷局ような不安が胸の中でゆっくりと沈殿してゆくのを感じた。

 その日の深夜のことだった。那津美の予感は的中した。自室で寝ていた那津美は強烈な熱を肌に感じ、目を覚ました。ベッドから起き上がると、自室の書棚が燃えていた。千冊以上ある壁一面に積まれた本の一部から深紅の火炎がまるで手持ち花火の先端から吹き出すかのように閃光を放っているのが見えた。不思議な光景だった。書棚の下から五段目の右の一部分だけが発火していた。燃えているのは三島由紀夫による『近代能楽集(1956)』だと分かった。そしてその両側にしまわれていた谷崎潤一郎の『春琴抄(1933)』とヘミングウェイの『老人と海(1952)』がその炎を防火材のように両側からせき止めていた。那津美は一瞬、その状況が非現実的で何が起きているのか理解できなかったが、我に返り、部屋を飛び出し、風呂桶に残っていた残り湯を桶に入れ、自室に駆け戻り、『近代能楽集(1956)』に向かってぶちまけた。残り湯をかけられた『近代能楽集(1956)』は一瞬で、しゅん、と鎮火し、那津美の部屋は水浸しになった。振り返ると起きてきた両親が状況を理解できない様子で呆然と立ち尽くしていた。

 遠くで消防車のサイレンが聞こえた。窓を開けた那津美は信じられない光景を目にした。いつも見慣れた自室からの風景が、まるで太平洋戦争の焼夷弾による爆撃を受けた街のように燃えあがり、いたるところから立ち上がる橙色の炎が低い雲を朱く照らしていた。那津美はあの連続図書館の犯人が、自分の予想と一致してことを直感したが、それを今さら誰に伝えたところで意味のないことはわかっていた。

 犯人は本だったのだ。

 世界中の本が発火し、世界を焼き尽くそうとしていた。那津美は振り返り、水浸しになった自分の本たちを呆然と眺めた。発火した『近代能楽集(1956)』をその他の本たちが止めようとしてくれたのだ。下校時に感じた本からの怯えや警告は今夜の「襲撃」への彼らの感情だったのだ。那津美は守られた。この水浸しになった本たちによって。

 那津美は泣いていた。両親が無言で抱きしめてくれたが、那津美が泣いている理由を両親はきっと分からないだろうし、知る由もないことも知っていた。

 燃え上がり消えゆく日常世界の焔の前で、ただただ、那津美は泣いていた。漆黒にゆらゆらと浮かび上がる巨大な焔の光が那津美の頰を紅く照らした。

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