【短編】「象の話」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 083
6歳の息子が、パパ、あしたがっこうに行きたくない、と言った。
日曜日の夕方、二人で市営のスイミングプールから帰る車中だった。助手席で視線を泳がせ、珍しく蚊の泣くようなしゃがれ声で彼は告白した。
「どうして?」
私は目線を道路の先からずらすことなく、努めて平静に聞いた。
「授業中、トイレに行きたいって言えなくて、おもらししちゃったの」
いつ?と聞くと、きんようび、とわずかな唇の隙間から声が漏れた。私は妻からその話は聞いていなかった。おそらく、パパには言わないで、と息子が妻に頼んだのだろう。
「みんなに笑われたの」
「そうかあ」
しばらく、私たちは黙っていた。車は渋滞する国道の車列の中で行き場を失いつつあった。
「だから、もうがっこうに行きたくない」
息子はわずかに割れた爪の先をもう片方の手でなぞった。
「どうしておもらししちゃったの?」
「先生に、トイレに行きたいって言えなかったの」
「どうして?」
「恥ずかしくて」
「またどうしてもトイレに行きたくなったらどうする?」
「手を上げて、トイレに行っていいですか?って言う」
「パパはそれでいいと思うよ」
車はサバンナを歩く象ほどの速度で国道を流れていた。私は静かにブレーキを踏んで言った。
「それは恥ずかしいことじゃない」
「はずかしいよ」
「おもらししないように、がんばればいいんだよ」
「わかってるよ」
「がんばってれば、恥ずかしいことなんてこの世にないよ」
うなだれた息子はシートベルトの縁をなぞっている。
「がんばれる?」
「うん」
「パパはね、誰かの相談を受けて、その人が人から好きになってもらえるように考えるお仕事をしているんだけど」
息子は私が何の話を始めたのか分からずに私の横顔をぼうっと見ていた。
「大人になるとね、自分を笑わせられる人が、人から好きになってもらえる人なんだ」
「どういうこと?」
「自分の弱さをね、おもしろおかしくお話しできると、人はその人のことを好きになっちゃうんだ」
「どうして?」
「自分の弱いところを人におもしろく話せる人は、強いからだよ」
「怪人をやっつけるみたいに?」
「怪人をやっつけるよりも、強い」
「そんなに?」
息子はうそお、と、笑った。国道の信号機の列が一斉に青に変わったが、車はサバンナの象よりも進まなかった。私は息子と二人で象にまたがり家に帰るところを想像し、笑った。
「パパ、なんで笑ってるの?」
息子が訊ねた。
私は今考えたことを息子に話そうと思い、サバンナの話を始めた。
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