【短編】「12/31」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 023
その女はバーでアイスバーを食べていた。
夜の11時を回っているというのに、サングラスをかけ黒いジャケットを羽織った女はピンク色のカクテルを脇に置き、チョコレートチップがコーティングされたアイスバーを静かに齧っていた。
僕はジンジャーエールを飲んでいた。手元のルービックキューブはいっこうに完成する気配はなかった。
バーテンダーの男は常連と話をしていた。客は僕たち3人しかいなかった。熊本の繁華街の地下。仕事納めの出張で訪れた馴染みのない街。ひっそりとしたバーは、独り身の大晦日にはうってつけの場所だった。
女は30代だろうか。不思議な空気を装っていた。彼女は僕の色あせたルービックキューブを見て、ぼんやりと話しかけてきた。
「青が揃ってる」
「ダメなんです。ここから先にいけなくて」
僕がルービックキューブに出会ったのは8歳の頃だった。当時、すでにブームは終わっていたが、デパートのおもちゃ売り場で気になり、親にねだって買ってもらった。訳も分からずカチャカチャとブロックを回転させた。青、オレンジ、白、緑、黄、赤、6色のブロックがランダムに散らばった。以来、30年間、ブロックが揃ったことはない。僕は24時間365日、肌身離さずルービックキューブを持ち歩き、その立方体を回さない日はなかった。受験勉強をしている時も、片思いの同級生を想っている時も、父親が死んで悲しみにくれている時も、僕はルービックキューブを回した。だが、完成することはなかった。僕がたどり着けるのは、いつも青一面だけが揃ったキューブだった。
女は、そんな僕の退色したルービックキューブをじっと見つめ、真剣な表情で囁いた。
「インターネットで解き方を検索したら」
「ダメなんです。なんて言ったらいいか分からないけれど、それをしてしまうと、ダメなんです」
「ふうん。ま、自由は与えられた人のものだから」
僕は青の面を崩さないように一面を回転させた。
「どれくらいつき合ってるの、その彼女と」
「もうかれこれ30年ほど」
「飽きれた。完成したことは」
「ないんです」
「30年、完成したことがない」
「ええ、30年、完成したことはありません」
「わたしのコレと一緒」
女はアイスバーをかかげた。
「モンブラン」
女の齧るアイスバーの名前だった。真っ白のバニラアイスに細かいチョコチップがびっしりとコーティングされている人気のアイスだった。子どものころ、駄菓子屋でよく見たものだが、大人になってから食べたことはなかった。
「30年。私もこの彼につき合ってるの」
女は半分ほど残ったモンブランをこぼさぬよう、器用に舌で拭いながら齧り、口に含んだ。
「子どものころ、駄菓子屋でね。「当たり」が欲しくて、お小遣いをもらう度にモンブランを買った。でもいつも出るのは「はずれ」。次こそは「当たり」が出るんじゃないかと思って、来る日も来る日もモンブランを買った。私の身長の30センチ分はモンブランでできてるのよ」
僕は笑った。
「でも、いつまでたっても「当たり」は出ない。中学生になっても、高校生になっても。友だちみんながオシャレなクレープを食べている時も、私はモンブランを食べた。でもダメ。一度も。一度たりとも、私に「当たり」は出なかった」
女はサングラスをしていたので、その感情は読み取れなかったが、その下に表情がないことは声色から明らかだった。女は、残念とも、恨むとも思わず、ただモンブランの「当たり」がでないことを、昨日の天気を語るように淡々と語った。
僕は女に聞いた。
「もし「当たり」が出たら」
女は少し微笑んだだけで、その質問には答えなかった。
僕は呟いた。
「30年か」
女に話しかけたわけではなかった。口から漏れた言葉だった。言葉は薄暗い地下のバーの壁に吸い込まれて消えた。
「あなたはルービックキューブを完成させることはなかった。わたしは「当たり」を引くことはなかった。それが30年」
あと15分ほどで今年が、そして30年が終わろうとしていた。僕の手元のルービックキューブの青以外の5面はあいかわらず前衛彫刻のように自由奔放な色彩をまき散らしていた。
女が最後の一口を齧り、裸になったアイスの棒をじっと眺めた。永遠のような時間だった。女はまるで地中海に沈んだギリシャ時代の彫刻像のように固まって、薄っぺらな木の棒を眺めていた。
「はずれ」
女はプリントされた文字を僕に見せた。サングラスの下の表情に変化はなかった。
女は勘定をカウンターに置き、席を立った。
「あなたのルービックキューブに幸運を」
僕は彼女の後ろ姿に向かって言った。
「あなたのモンブランにも」
何も満たされなかった僕たちの30年に。安堵と希望に。
僕は静かにルービックキューブを回した。
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