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【短編】「展望デッキ」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 022

 航空会社地上勤務員のミサは今日も全速力で空港の長い廊下を走っていた。

 タイトなスカートと革靴が走りにくい。ジャケットの形状も最悪だ。こんな非機能的な制服を考えたデザイナーに文句を言いたかったが、そんなことが脳裏をよぎっている時間すらもったいなく感じる。今は86番搭乗口に向かってお客様を誘導することだけを考えなければ。

 ミサは速度を落とすことなく振り返った。

 青白い顔をした細身の中年男が息を切らせながら必死について来る。彼のプラダも襟元が崩壊している。デザイナーは空港を全速力で走った場合のシルエットなんて想定していないのだろう。あたりまえだ。そのうえ右ひざはボロボロに破れていて、さらに気になるのは気分の悪そうな青白い顔だが、きっと彼の死因は出血多量といったところだろう。

 死後、空港における身体的特徴は、移動を妨げるような損傷のみ修復外科施設で復元されるが、健康状態に伴う症状は死亡時のままが基本だ。だからこんな時、お客様の気分が悪いのか、それが死んだ時の顔色なのか分からない。

 東京冥界空港における黄泉の国への出国者数は人口ピラミッド通り年々増加傾向にあり、キャパシティオーバーに達していた。

 出国手続きカウンターには長蛇の列が連なりオペレーションが追いついていない。

 ただでさえ出国のお客様は搭乗受付カウンターで自分が正式に死んだことを認識し、思い思いの感情と折り合いをつけながら大量の出入国審査書類に目を通さなければならないのに、同時にフライトスケジュールを遵守していただくことなど不可能に近い。

 黄泉送り展望デッキから死に別れた家族の様子を双眼鏡で見ることに夢中になり、搭乗手続き締め切り間際に呼び出されるお客様も頻出する。

 ミサにしてみても、その気持ちは痛いほど分かるが、そのおかげで毎日、空港をトランシーバー片手に駆け巡ることになる。

 左耳のヘッドフォンに、86番搭乗口のスタッフからアナウンスが飛び込んで来た。

 「86番、3分後に締め切ります」

 「了解。コダマ様、いま7番搭乗口前です」

 息を切らせながら無線を切る。なんとか間に合いそうだ。

 すこしホッとして振り返る。だが、そこに青白い顔のコダマ様の姿はなかった。

 しまった。油断した。

 踵を返し、人ごみを避けながら今来た道を駆け戻る。その先に、床にぺったりと倒れているコダマ様を見つけた。まさに絵に描いたような死人である。ミサは彼の上半身を抱き起こし、しゃがんだ自らの膝の上に乗せた。

 ぜいぜいと肩を大きく上下させ汗を流すコダマ様は、紫色の唇から震える声を絞り出した。

 「すみません。走るの苦手で」

 「大丈夫ですか」

 「死んじゃう」

 「もうお亡くなりになられています」

 「わたし、飛行機に乗り遅れると、どうなっちゃうんですかね」

 「代替便をご用意させていただきます。ですが、本日の便がすべて満席を頂戴していまして、キャンセル待ちをしていただくか明日以降の便でのお手続きとなってしまいます」

 「申し訳ない。お願いします」

 「かしこまりました」

 ミサはコダマ様にラウンジの場所を教え、とりあえずそこで待っていただくよう伝えた。

 カウンターの地上勤務員と連絡を取り、代替便の手続きを済ませたミサは黄泉送り展望デッキのガラスドアを開けた。

 「明日9時の代替便が取れました」

 コダマ様はそこにいた。

 「どうしてラウンジじゃなく、ここにいると」 

 「たいていのお客様はこちらにいらっしゃいます」

 「そうですか。ありがとうございます」

 「ご家族のことが、心配ですか」

 「いえ、娘も自立して立派に働いていますし、いいパートナーにも巡り会えたようで。いなくなったあとに覗くのもなんだか気が引けて、この双眼鏡、じつは覗けていないんです」

 「そうですか」

 「あなたにもご迷惑をおかけしました。私がもう少し走れていれば」

 「いえ、そんな。私は毎日走っていますから」

 「本当にもっと走れていれば」

 「お気になさらず」

 「私もここにいることはなかったのですが」

 「え?」

 「交通事故です。飛び出した子どもを助けることはできたのですが、私が巻き込まれちゃって。本当に、もっとちゃんと走れていれば」

 ミサは力なく笑う青白い顔のコダマ様を見つめた。

 「ま、後悔はないですよ。ただ妻には一言謝らないと」

 そう言ってコダマ様は代替便のチケットを受け取り、エスカレーターに向かった。

 「あ、コダマ様」

 ミサはあわてて双眼鏡の脇にある音声入力電話の受話器を上げた。

 「あの、奥様にお伝えしたいことがおありでしたら、こちらの虫の声サービスを通して」 

 「あ、妻はね、待ってるんですよ、先に。あっちでね」 
 
 ミサは受話器を下ろした。

 「だからね、ちょっと急いでね、がんばって走ったんですけどね。ほんと、だめですね。まあ、でも。それも謝ったら許してくれるでしょう」

 コダマ様の顔がエスカレーターの流れに乗り、ゆっくり下に消えてゆく。

 「ありがとうございました。あなたもお元気で」

 その青白い顔は最後まで穏やかに笑っていた。

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