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芸術のこれから


先日『人間の建設』という本を読んだ。
本書の裏表紙にある作品紹介にはこうある。

有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。

小林秀雄は文系的頭脳の歴史的天才と評するに相応しい。
言わずと知れた日本における文芸評論の第一人者であり、その批評対象はシャルル・ボードレールをはじめとする海外の詩人から、志賀直哉をはじめとする日本の文学まで幅広く、さらにはベルクソンなどの哲学についてまで詳細に論じている。ドストエフスキー作品が日本に浸透した理由の一つに彼の批評があることは疑いようなないだろう。

岡潔は理系的頭脳の歴史的天才と評するに相応しい。
言わずと知れた日本における数学の大家であり、彼が解決した多変数複素関数論における幾つかの大問題は、その後海外で紹介され、現代の数学に欠かせない「連接層」という概念を構築する基礎になった。彼の論文を(物理的に)海外に持っていたのが日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹であり、後世への影響という意味でも日本数学会における巨人と言えるだろう。

『人間の建設』はそんな2人の天才による「雑談」を収録した作品である。
この本を読む少し前に森田真生の『数学する身体』を読んでおり、そこで紹介されていた岡潔の人物像に惹かれつつあった自分にとっては、大変刺激的かつ勉強になる内容だった。

この記事では『人間の建設』において語られた「芸術論」の一部を参照して、今後の芸術がどのような表現を取り得るのかという問題について検討してみたい。

本書において、小林が俳句について語っている箇所がある。
彼には長年の付き合いになる骨董屋の友人がいて、その友人が亡くなってしまった。骨董屋の友人は生前隠れて俳句を詠んでおり、友人の息子から骨董屋の歌集を作りたいから前書きを書いてくれと依頼される。小林はそれを引き受けて、骨董屋が残した数多くの俳句を確認する。当然素人の作品であるから、そのクオリティはお粗末なものである。批評の目に長けた小林から見るのだから尚更だ。
しかし小林はそれらの作品を「面白い」と思った。

それを彼はこんなふうに表現している。

しかしそれは私でなければわからないのです。それがまたおかしな俳句が沢山あるんです。そいつはとても食いしん坊で酒飲みで道楽者で、死んじゃったのですが、こういう俳句はどうです。「あれはああいふおもむきのもの海鼠(なまこ)かな」ナマコが好きな奴なんですよ。ナマコで酒を飲むでしょう。そのナマコの味なんていうものはお前たちにはわかりゃしないという俳句なんですね。そういう句はですよ、僕がその男を知っているからとてもおもしろいのです。こんなものを句集で誰かが見たっておもしろくもない。都々逸だか俳句だかわかりゃしない。
(中略)
そうすると、芭蕉という人を、もしも知っていたら、どんなにおもしろいかと思うのだ。あの弟子たちはさぞよくわかったでしょうな。いまは芭蕉の俳句だけ残っているので、これが名句だとかなんだとかみんな言っていますがね。しかし名句というものは、そこのところに、芭蕉に附き合った人にだけわかっている何か微妙なものがあるのじゃないかと私は思うのです。

人間の建設|新潮文庫


私は元来根暗な性格で学生の頃は大体家にいた。外で遊ぶよりも家で遊んでいる方が圧倒的に楽しかったからだ。私には2人の弟がいて、ちょうど中学生ぐらいの頃に、その弟2人だけに向けて週刊連載の漫画を描いていた時期がある。今でも弟たちに会うと「あの漫画が人生で一番面白かった」と言われるのだが、それはまさに人間関係を前提として作品を受け取っていることによる効果の顕在例であろう。

また、中学校の修学旅行で京都を訪れた時のこと。どのお寺かは忘れてしまったのだが、日が暮れた後にお寺の縁側でお琴の演奏を聴くというイベントがあった。演奏に聴き入っていると、どこからともなく蛍が飛んできて、その情景がとても美しかった。修学旅行から帰った後、旅行の思い出を俳句にするという国語の授業があり、そこで私はこのような句を詠んだ。

「琴の音に 惹かれてよりし 蛍かな」

あの瞬間の情景と「琴を弾く」「琴に惹かれる」を掛けた、わりと良い句ではないだろうか。実際、その場にいた友人たちにはすこぶる評判が良かった。しかしその場にいなかった友人たちからは反応が鈍く、場合によっては「あまりに理想的な場面すぎてつまらない」などと評価された。これも作品に対して鑑賞者がどう紐づいているかによって、作品の性質が変わる端的な例ではないだろうか。

小林が言っていることを私的に解釈すると以下のようなことが言えると思う。

まず、一般的な芸術における鑑賞者と製作者の関係は直線的である。
図で表すと以下のように表現できる。

鑑賞者は直接作者を認識することができず、作品を通してはじめて間接的に作者を知ることが可能となる。

一方、知り合いの作品を見る場合は、鑑賞者と製作者の関係は、作品を挟んだ三角関係になる。

鑑賞者は作品を見ることもできるし、製作者を見ることもできる。そして何より製作者と作品の関係性を見ることも可能なのである。

ここに作品に対する向き合い方の大きな違いがあるように思われる。そしてそれは鑑賞者と製作者が一致するケース、つまり自分が製作者だった場合にも同じことが言えるのではないか。


以上のことを踏まえて芸術についてもう少し考えてみる。

芸術とはいつから「作者が遠い媒体」になったのだろうか。
おそらく、人間が芸術という行為をしはじめたときは、まだそうではなかったはずである。作品に触れるということは、作品が目の前に現れなければならない。遥か古代、人間の移動距離に大きな制限がかけれらていたため、目の前の作品を作った製作者が遥か遠くに存在している人間であるというパターンは少なかったはずである。だから作品のそばには常に製作者がいて、鑑賞者は製作者と作品の関係を見ていたのである。
しかし文明が発達すると、距離的にも時間的にも作品と製作者の隔たりが大きくなった。それにより芸術鑑賞とは「作品を通して作者を認識する」行為に変化していき、そしてそれは一般化され、我々の常識として定着しているように思える。

そして、未来の芸術は過去に回帰するのではないか、と私は考える。
例えば「絵」の業界においては昨今AIの存在が日に日に強くなっている。2022年にアメリカのコロラド州で行われたColorado State Fairにおいて、ジェイソン・M・アレンがAIプログラム(Midjourney)を利用して作った作品がコンテストの新進デジタルアーティスト部門で最優秀賞を獲得したのは記憶に新しい。

Jason Allen via The New York Times/©The New York Times

将来、AIの描く絵が人間のそれと判別がつかないほど精巧になった際に、それでも人間が描く絵に価値があるのだとしたら、それはなんだろうか。
私はそこに「人間自身」を見る。

製作者たる人間とその人間の作品を並列化して鑑賞すること。その鑑賞方法において(AIに人間と同等の人格が認められない限り)(または個別のAIを個別の尊厳として認めない限り)機械的に作られた作品と人間が作った作品における明確な違いを見出すことができる。

おそらく、今後の芸術家は自分自身を芸術の一部として外部に流出させるのだろう。それは制作過程の公開かもしれないし、作品とプライバシーの融合かもしれないし、もっと物理的に自分自身と作品の合体かもしれない。いずれにせよ、作品の後ろ側に作者がいる旧態依然の方法は次第に廃れていき、芸術家は作品と並列な存在として鑑賞者側に浮上してくるものと思われる。(そういう意味では、過去の芸術作品の作者を浮上させるという文脈で、今は亡き芸術家を擬似的に蘇らせるような動きも現れるのではないか。)

それは一般的な芸術に留まらず、noteでの発信などについても同じことが言えるのかもしれない。noteで書かれるような記事は、そのうちにAIによって大量生産されるであろう。そのとき人間側に残されているのは、自分と記事を並列に表現する手法であり、それは決して単発の出会いで終わらない、相互関係的な繋がりを前提にした発信/受信方法なのであろう。

『人間の建設』の対談者の1人である数学者の岡潔は「数学は情緒である」と述べている。(そんな彼がドストエフスキーを好み、トルストイを嫌うのは非常に趣深い)その言葉には数学というある意味機械的な手続きの中においても「人間としての何か」を忘れてはいけないという戒めがあるのではないか。そして芸術に関しても、最後に残されるのは人間的な情緒なのではないかと感じるし、そうであってほしいなと強く思う。

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