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見えていない世界

40代後半からメガネをかけていると近くの物が見えにくくなってきました。特に暗い場所で文字を読んだり、撮影の時にピントを合わせようとすると正直に言えば絶望しそうになります。そんな大袈裟なぁと思うかもしれませんが、経験した人なら笑うか激しく同意してくれるはずです。
高校に入って、メガネが必要な視力なってしまいました。それまでは、これまた正直に言えばメガネなんて自分には一生必要のない物だと思っていました。それまでの15年間お世話になっていなかったものですから、特に思春期男子には受け入れられないアイテムだったのでした。しかし、それから40年も付き合っていれば、ほぼ生活必需品のレベルです。
私は、仕事で研究で趣味で海に潜りますので、ダイビングマスクのレンズは視度の調整した物を使っています。視力の良い人には理解してもらえないかも知れませんが、矯正視力を得ている人は必ずしも目が悪い訳ではありません。もちろん傷病・疾病によって正常な視力を失っている人もいるので一概には言えませんが、適切に視度が調整されていれば、案外見えるし、見えない世界で培われた一種の感が働き、見えていないはずの景色や物体が視覚に加算されて理解できてしまうのです。これはオカルトの世界や特殊能力の話では無くて、誰にでもあるものだと思っています。視力が良い人でも、同じようなスペックを超えた理解を発揮できる人もいると思いますが、案外気がついていないケースが多いと考えます。

何故こんな話を書こうと思ったのかは、表紙の写真を撮った時のことを思い返したからです。これは、岩肌に産み付けられたマツバスズメダイの卵です。撮影時には、この卵は見えていません。何を馬鹿なことを言っているんだ?と思われるかも知れませんが、視覚としては岩肌としてしか認識できていません。ならば、どんな理由でその岩肌を撮影したのかと尋ねられれば、そこに卵があるはずだからです。

今のカメラを含めたレンズは非常に優れていて、使い方にもよりますが、好きなところに合焦できて、精度も非常に高いのです。なので、見えていなくても小さな物や生物を感じて撮影することができるのです。
実際、こんな数mmの抱卵したワレカラが見えるわけがありません。

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30代の頃は、メガネを必要としているとは言え、遠くの物や暗い場所の生物を捉える能力は高かったと自負していました。ケニアのサバンナではガイドよりも早く何キロも離れた場所にいるアミメキリンを判別し、ターゲットライト無しで暗い環境で動き回る生物も撮影できました。
それがどうでしょう、40代になり後半になるに従いそれまで何の苦労もなく見えていた景色が手に入らなくなりました。もちろん、加齢による生物学的な限界と言うものは視覚に限らず明らかに存在している訳ですから、それを根拠もなく否定するつもりはありません。しかし否定したくなるほどの葛藤と言うか認めたくない現実がぶら下がって視界を邪魔するのです。人によっては、その状況に陥って叫び出したくなるほどだと言います。確かに、私も水中でピントが分からなくてハウジングを何度か放り投げた経験があります(笑)。

この感覚を理解できてからは、そんな感情が湧き起こることは無くなりました。もしかすると、上手い諦め方が身についたのかも知れませんが、物を視覚だけでなく脳の記憶に連動させて実体が理解できるようになったことで、見えないことに対する恐怖は無くりました。

見るんじゃない、感じるんだ。
フォースの世界ですねって言われたことを思い出しました。

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