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棚上げにしていること

 1988年の秋から1990年の夏まで、中華人民共和国広州外国語学院で日本語を教えていた。もう少し長く滞在するつもりだったが、89年の天安門事件とその後のちょっとした混乱に堪えることができず帰国した。

 その頃の中国は、経済発展が始まったばかりという感じで活気に溢れていたが、旧来の、なんというか、ぼくにはあまり慣れない風習も色濃く残っていた。所かまわず痰を吐き散らしたり、路上の買い物すらけんか腰で値切らなければとんでもない値段をふっかけられたり、バスに乗るにも切符を買うにも押し合いへし合いしなくてはならなかったり、袖の下がいろんなところで通用してたり、天安門で水平に構えた銃を乱射する軍隊がいたり、その翌日には大学に溢れていた学生が一人もいなくなったり、まあ、いろいろだ。

 二年間しか生活していないのに、その感想めいたものを書くのもおこがましいが、それなりに考えたことがある。それは「ぼくがここで生まれ育っていたら、自分がいま煙たがっている人と同じようなことをする人になっているだろう」ということだ。ああだこうだ批評めいたことをいっても、それは裸のぼくに備わった要素ではなく、環境によって備わったぼくの常識からの発言だ。半分はぼくの常識のいびつさだ。いいも悪いもない。

 たまたま、ぼくが生まれ育ったところは、ここではなかった。
 きっと、ぼくもあなたも、同じように環境に振り回されている。

 その後、日本に帰り赴任した都市部の教育困難校でも同じことを感じた。クラスの3人に1人が授業料免除を受けていて、卒業までにクラスから10人以上が退学していくような時代だった。彼らと話したり、家庭訪問を繰り返すうちに、「ぼくが彼らのような環境で生まれ、育っていたら、果たして彼らのような生活ができていただろうか」と考えるようになった。そう考えると、事件を起こして停学中の生徒にも、風俗でバイトしている生徒にも説教じみたことは言えなくなった。もし、彼らと同じような環境で生まれ育ったとしたら、もっと自棄になっている自分の姿しか想像できなかったからだ。「生育環境が、たまたまそうじゃなかった」だけの自分に、何が言えるのか。自分の発言の土台が「たまたま」の産物だったら、情けないし、悲しい。

 たまたま、ぼくが生まれ育ったのは、きみの家ではなかっただけだ。
 きみは、ぼくのもう一つの姿かもしれない。

 と、ここまでだと、なんか自分って「ものの分かったいい奴」って感じである。でも問題はこの後なのだ。逆だとどうだ? 自分が誰かに「きみは、ぼくのもう一つの姿かもしれない」と思われていたら? もっと豊かな人から、もっと幸せな国の人から。

 イヤだーっ!
 なんかお情けをいただいてるみたいで、ぜったいイヤだーっ! 

 あるいは、より社会的に恵まれている人に対して、ぼくはどう思っているのか?…… などなど考えていると、先の自分の感覚が自己の優位性の上に立った鼻持ちならないものだと思える。うーむ。

 考えるステージが違うはずなのに、それをぐっちゃにして考えているような居心地の悪さがある。自己と他者の関係、国家と個人の関係、個と社会性の問題、何が何だかよくわからない。だから、どう整理すればいいかもわからない。

 とりあえず、棚に上げて知らんぷりを決め込んでいる問題の一つである。




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