次、何を読もうか。

 今日、ちょっとした会議が終わった後で、知人に「どうやって読む本を探しているの? ネットで調べているの?」と聞かれた。
 改めてそんなことを考えたこともないので、しどろもどろになったのだが、この一ヶ月の読書を何となく振り返って、どうやって次に読む本を探しているかを考えてみよう。

 うろ覚えだが、一月ほど前は、佐久間寛編『負債と信用の人類学』(以文社・2023)と倉元直樹編『大学入試センター試験から大学入試共通テストへ』(金子書房・2020)を読みながら、津村記久子の全小説の読み返しをしていた。もちろん前の二つの堅い本は遅々として読み進めず、津村の全小説はすいすい進んでいた。「あぁ、やっぱり津村記久子はおっそろしい書き手だなぁ」と感動と感心しながら。
 当然、全二冊は読みかけのまま進まず、何度目かの津村記久子の全小説の方を先に読み終えた。

 さて、「次に何を読もうか」と確かにその時考えた。枕元には角田光代の『源氏物語上』(河出書房新社・2017)、岡野八代『フェミニズムの政治学』(みすず書房・2012)、福永武彦『別れの歌』(新潮社・1969)、シモモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(岩波文庫・2017)が並んでいる。どれも途中までは読んでいるが、まだ最後まで行き着いていない。ぼくはどんな本でも、最後まで読まねば納得できない。美味しいところだけつまむとか、面白くないから(よくわからないから)、途中で止めるということができないのだ。読みかけの本は、「読むのを止めた」本ではなく、今、読んでいる(読みかけの)本という位置づけである(笑)。

 で、ぼくは山になっている「読みかけの本」はそのままに、「うーん、やっぱりデヴィッド・グレーバーは読まなければならないだろうなぁ」と思う。でも肝心の『負債論』は(あまりに高すぎる敷居に対する恐れから)後まわしにして、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店・2020)と松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社・2021)と、ポチッのついでに万城目学『六月のぶりぶりぎっちょう』(文藝春秋・2024)を入手する。当然、万城目をすぐに読了。ついで『くらしのアナキズム』も感動の嵐の中で読了。松村圭一郎の本を読むのは、3冊目か4冊目くらいだけど、これまでの中では一番好きだ。

 これまた当然のごとく、グレーバーは最初のちょこっとだけ読んで、「読みかけ本」の仲間入りを果たす。では何を読んだかというと、『くらしのアナキズム』の中に引用されていた「きだみのる」が気になって購入していた。『にっぽん部落』(岩波新書青・1967)と『気違い部落周游紀行』(冨山房百科文庫・1981)の二冊の前者を先に読了。きだみのるは、子どもの頃に名前は聞いたことがあるけれど、一度も読んだことがなかった。どうしてこれまで読んでいなかったんだろうと、軽く後悔。全集があったら欲しいなぁとも思う。続けて後者も読むのかと思いきや、それは後まわしで、奈倉有里『文化の脱走兵』(講談社・2024)を読了。最初の作品でほぼ号泣(泣いていないけど)。同じ作者の『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス・2021)がとても良かったので、いつか別の作品も読もうと、きだ作品の隙間でポチッとしていた。とんでもない書き手の登場に歓喜している。

 今は、きだみのるの『気違い部落周遊紀行』を読んでいる。この後は奈倉有里『ロシア文学の教室』(文春新書・2024)を読むんだろうな。二冊ずつ購入したのだ。

 こんな読み方では、読みやすかったり読みたかったりする本ばかり読んで、「読みかけ本」が溜まっていく一方のような気がするが、今はちょっと遠ざけている「読みかけ本」も、必ず続きが読みたいという日が訪れ、「読んで良かったなぁ」と思い、もう一冊読んでみようとなるのだ。不思議だが、これまでずっとそうだった。

 いろんな本が繋がったり、広がったりしている。そのひもを伝ったり、遡ったりして読む本は決まっていくんだな。それだけで手一杯だ。ネットで読みたい本を探している暇はない。

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