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阿呆なゲームをぬけた先の私たち  藤井風「もうええわ」の「歌い言葉」

 「歌い言葉」について書きたくなったのは、藤井風の歌詞が気になってしょうがないからです。彼の歌にはどれも、キラーフレーズが光を放っています。

 「もうええわ」が、ぼくらの前に現れたのは4年前のことでした。びっくりしましたね。とんでもない才能の出現に。

  ぬけた 阿呆なゲームいちぬけた
  夜が 冷めた風に吹かれてた
  ふらつかないで 踏みしめて
  内なる風に吹かれて
       (藤井風「もうええわ」2019)

 自身が語っているように、ここでは執着の放棄とすべてのベースとなる愛への回帰が歌われています。それは、たぶんこれまでにも多くの人が歌ったり、書いたり、描いたりしてきたものです。コンセプトとしては、凡庸であると言ってもいいでしょう。ただ、これまでのそれらは過分にスピリチュアルであったり、思想的であったり、夢想的であったり。とにかく現実離れしたものが多かったように思います。

 ところが、藤井風の「歌い言葉」は、ストレートにそれを伝えます。気負いも、過剰な装飾もそこにはありません。彼の「歌い言葉」は、MVの映像と一体になって、ぼくらにこの歌の姿を示します。ぼくらが執着を放棄したときに、世界がどんな姿を現すのか。スピリチュアルでも、思想的でも、夢想的でもない現実の姿を見せてくれます。

 彼は、それを描写するように歌います。歌い上げも、シャウトもせず、熱唱するわけでもありません。力強いベースラインに導かれ、脱力した声で「ぬけた 阿呆なゲームいちぬけた」と歌います。そこに、彼の「歌い言葉」は立ち上がります。

 自身「MVは刑務所かゴミ捨て場で撮影したい」と言っています。それに対して、監督は「浮浪者」「汚くて未発達な渋谷」を提示したそうです。そのアイデアを喜んだ藤井風は、このMVを「浮浪者たちからはじまりヒップホップ野郎として過ごし浮浪者として終わる」という「ハッピーエンド」なのだと言います。

  "もうええわ"って何なん Kaze talks about “Mo-Eh-Wa” (youtube.com)

 「阿呆なゲーム」を抜けたとき現れるのはお花畑ではなく、冷たい夜の風なのです。その風に「ふらつかないで」、地面を「踏みしめて」、外の冷たい風ではなく「内なる風に吹かれて」生きていくべ、と藤井風は歌います。どうせ風に吹かれるのであれば、「内なる風に吹かれて」いこうと。MV後半の浮浪者が、彼の提示する「もうええわ」の先にある「執着の放棄」と「愛」の形です。

 執着から離れた先にあるのは、お花畑ではない。そこにあるのは、やはり厳しい現実です。でも、そこに現れる厳しい現実は、それまでのものとは違います。そこでは、「うつむかないで 怯えないで」生きていくこと、「泣くくらいじゃったら笑っ」て生きていくことができる、と藤井風の「歌い言葉」は伝えます。そして、それが「生きていく」ということなのだ、と。

 だから「もうええわ」と言うのです。「行き詰った悦び」も「すれ違った人」や「過去」を怖がるのも、「意味もなくただ傷つけられそして傷つけ」ることも、「もうええわ」と。世間であったり、資本主義であったり、あるいは収入や「スキ」の数であったり、そんなものに囚われるのは「もうええわ」と、藤井風は歌います。

 浮浪者は、法然や一休禅師かもしれません。寒山や拾得の姿かもしれません。あるいは石を投げられたキリストなのかも、です。

 そしてそれは、ぼくらが外面のいろいろを脱ぎ去った姿かもしれません。

 仕事や財産やおしゃれな服や、格好つけたふるまいや、美食や優雅な趣味や、貯金の残高が、ぼくらの存在を担保することのない世界。家や車や、土地や宝石が、ぼくらの存在の残高を示すことのない世界。

 そんな世界の中で、ぼくらはきっとみんな寒山拾得で、浮浪者です。

 デビュー間もない青年が、そんな世界を描いてみせたのです。
 世界が驚かないわけはありません。

 藤井風「もうええわ」の「歌い言葉」は、ぼくら自身の貧しさを再確認させ、そこから始まるしかない愛を示しました。



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