お腹が鳴ったから、ハンバーグを食べよう
私の長女は小学校1年生の頃から「学校に行きたくない」と登校を渋る事が多かった。
行きたくない理由はその時によって違っていた。
「算数の授業がいやだ」とか
「体育の授業がいやだ」とか
「◯◯ちゃんと喧嘩した」とか。
でも多分長女にとっての理由は後付けだった。
多分当時の彼女は、ただひたすらに「学校に行きたくなかった」
でも、私は「行きたくない理由」を探しては潰すことばかり考えてきた。
それさえなければきっと楽しく行けるようになるはずだと思っていた。
でもひとつ潰せばまた新しい理由がひとつ。
モグラ叩きのように終わることなく「行きたくない理由」は飛び出してきた。
長女の一挙一動を見て、楽しくなる瞬間を探した。
楽しくない瞬間を潰せば楽しい時間しか残らないはずだと私は必死だった。
でも多分、長女はあのモグラ叩きを終わらせる気がなかった。
「行きたくない」という確固たる意志の下に、後付で理由をつけていただけだったのだと思う。だから理由は都度変わったし、叩いても次々とモグラが飛び出してくる事実は変わらなかった。
終わらないモグラ叩きに私はただただ疲弊した。「こんだけ叩いたんだからもういいでしょう!」と、疲れ果てて長女をなじることも何度もあった。
学校に行ったり休んだりを交互に繰り返して、長女は今年で5年生になった。4年生の中頃。1ヶ月ほど学校を休んだあと、ごく少人数のクラスに入ることを提案された。
そこに移ってから長女は私にモグラ叩きさせることをやめた。
嫌いな算数があっても行くし、避け続けた体育にも参加するようになった。
カゼを引いて熱を出せば「早く学校に行きたい」と弱々しく嘆いた。
以前なら少し体調悪いだけで、隙あらば休もうとしていたのに。
今回、1学期の振り返りで長女が思う「自分が進化したと思うこと」が「楽しく学校に通えるようになったこと」だったそうだ。
今まで楽しく通えていなかったんだ、と思った。
全ての学校生活が楽しくなかったわけではないだろう。楽しい「瞬間」はあったけど「通うことを楽しむ」ことは出来ていなかったんだ。
多分、大事だったのは楽しくないことを潰して楽しいことを残すことより「楽しくないことがあっても行きたいと思えるほど学校を好きになること」だったんだと思う。
そして、好きになれたから、楽しく通えるようになったんだと思う。
長女はずっと、好きになれるような、自分に合う環境を追い求めていた。
今の長女は夏休みが開けたら、多分、止めたって学校に行きたがる。
それは本当に大いなる進化だと思う。
子どもが学校に行っていないことを周りに話すと、大抵の人が
「行けるようになるといいね」と言う。
運動会には出ていない、と話すと大抵の人が
「来年は出られるようになるといいね」と言う。
本人の気持ちはいつも置き去りだ。
「行けるようになる」「参加出来るようになる」事実ばかりを、大人はつい追い求めてしまう。
「学校に行きたくない」と言うことも
「学校に行きたい」と言うことも。
長女は言葉にして私に伝え、私が受け入れなくても頑としてその意思を貫いた。
何時間もかけて説得し、学校に連れて行って先生に引き渡したこともあった。でも結局先生もお手上げになって学校から電話が来ることもよくあった。
運動会に出ないことも、発表会に出ないことも、何年間かは迷いがあったけれど、長女の中に今その決断への迷いはない。
彼女は、自分が嫌だと思うことには確固たる意志で参加しない。
自分の時間の使い方を、自分で選んでいる。
それは果たしてわがままだろうか?
どんなに嫌なことでも「周りが当たり前にやっていること」なら頑張ることが正しいというのが多分私ぐらいの世代では常識だった。
でもこれからはきっと、今までわがままとされてきたものが正しくなる時代へ変わっていくんじゃないかと思う。
嫌だと思うことはやらない。
やりたいと感じたことをする。
誰もがそれが当たり前であるほうが余程生きやすいはずだ。
なのに、どうして人はやりたいことをガマンさせあい、嫌だということを強要しあってみんなでお互いを縛り合うような生き方をしてきたのか。
私は自由に生きる長女を見ていると、これからはこれでいい、とよく思うのだ。
*
長女は食事の時間も自由だ。
ごはんの時間だよ、と声をかけても「今はお腹がすいてない」と言って食べない。私が子どもの頃は、食事の時間は家族団らんのために大切とか言って無理矢理にでも食べる時間を合わせていた。
でも、長女は「今はお腹が空いていないから食べない」という。
最初は無理強いしていたけど、無理やり座らせてもほとんど食べられないから諦めた。
最近では「お腹がすいたら勝手に食べたいものを食べなさい」とほったらかしている事も多い。
昨日の夕飯、長女はハンバーグをひとつ残した。
残したハンバーグにラップをかけると
「明日の朝、おなかがすいたら食べる」と言った。
翌日10時近くなったころ。長女のお腹がグウゥと鳴った。
「お腹が鳴ったからハンバーグを食べよう」と呟くと、長女は勝手に冷蔵庫からハンバーグを出し、温めて食べていた。
*
『お腹が鳴ったからハンバーグを食べよう』
何気なく呟かれたその言葉が、妙に私の心に残った。
食事とは、時間になったから食べるものではないのだ。
みんなが食べているから食べるものではないのだ。
自分のお腹がなるから、お腹がすくから、ハンバーグを食べるのだ。
自分が行きたいと思ったところに行くこと。
自分が嫌だと思ったところに行かないこと。
お腹が空いたらごはんを食べること。
それは、誰に強要されることでもない、自分で選ぶこと。
私はそんな長女の生き方に、たくさんの学びを得ている。
Voicyでも同じテーマでちょっと違うことを喋ってます。
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