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胆道閉鎖症/門脈圧亢進症/肺動脈性肺高血圧症の3つと闘う田舎のOLです。自分のことをつ…

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胆道閉鎖症/門脈圧亢進症/肺動脈性肺高血圧症の3つと闘う田舎のOLです。自分のことをつらつらと。誰かの役に立てたらな。全て自分の記憶を辿って書いてます

最近の記事

身体よりも成績

中学生活初めての定期テストは散々な結果に終わった。 本当に目も当てられなかった。 塾に通いたいと懇願し、そこから私とパパとママは受け入れてくれそうな塾を片っ端から探した。 塾に求める条件は3つ ①個別指導であること ②体調不良で休んだ時のために振替ができること ③送迎バスがあること だった 何ヶ所か説明を聞きに行ったり、こちらの説明をしたりもしたが、何かあった時の責任の所在を理由に断られたりもした。 ようやく見つけたのは大手某個別指導塾だった。 週に2日、バスで通っ

    • 成績が散々だった話

      体育の授業以外はみんなと同じように学校生活を送ることが出来たのも全てティー先生のおかげだった。 私が入学する前から私の存在を全職員に説明してくれたのもティー先生 私は中学に入って初めての壁にぶつかった。 それは中学校生活初めての定期テスト とんでもない点数を叩きだし、両親も絶句 とにかく散々だった 小学校ではそんなに出来ない方ではなかったのに。 それもそのはず、私が通っていた中学は数ある市内公立中学校の中でもトップクラスの優秀校だった。 そこから私は塾に通わせて貰え

      • 憧れだった吹奏楽部の話

        中学校生活初めての一大イベントである、オリエンテーション合宿も無事に終わり毎日が本当に楽しかった。 小規模だった小学校とは違い、約300人もいる学年にいると自然とたくさんの友達が出来た しかも、入学当初にティー先生が学年に私のことを話してくれたのも相まって声をかけてくれる子も多かった。 ただ、小学校とは違い学校に滞在する時間も長くなりバス通学の疲れもあって放課後は家に帰ると晩ご飯の時間まで爆睡してしまうことが多々あった。 部活動にも入った。 憧れの吹奏楽部に入ろうとルン

        • 世の中には色んな人がいるって話

          無事に小学校を卒業し、私はみんなと同じ市内の公立中学校普通級へ進学した。 酸素ボンベを引き連れてバスに乗る以外は他の生徒と特に変わりはなかったし、登下校も1人でできるようになった。 私の担任は結論から言うと3年間同じ先生だった。 どの学年の担任の先生も私にとって支えてくれた人で感謝している。 ただ、中学校3年間の担任だけは私の人生に必要なことを教えてくれた。 先生と初めて会ったのは入学式だった。 母は入学前から会っていたけれど私が会うことは許されなかった。 サッカー部

        身体よりも成績

          卒業した話

          3学期になると、小学校側から校長や教頭と私の母中学校側から校長と教頭の数名で学校生活で気をつけるべき点や注意事項、緊急時の対応等の話し合いが連日続いた。 私はと言うと、友達と入学後の生活に胸を躍らせ期待に満ち溢れていた。 卒業式の日、もちろん両親に妹、祖母まで駆けつけてくれて私の門出をお祝いしてくれた。 例年、私の通っていた小学校では卒業証書授与の際に、本人のバックにあるスクリーンに幼少期の写真を写して一言メッセージを言うことになっていた。 友達はみんな、リハーサルの

          卒業した話

          普通級と支援級で悩んだ話

          クラスメイトと同じ、小学校からほど近い公立中学校への入学を許可されこれで私の進学問題も一件落着………と言いたいところだったがこんなものただの序章に過ぎなかった。 次に挙げられた問題はずばり 学級はどっち!?普通級or特別支援級選びまSHOW くらいの気軽な勢いで突きつけられた。 (いや、多分もっと厳かだったと思う) 中学校側としては籍をどちらに置くのかはっきりさせて欲しいということだった。 そんなの迷うことなく小学校と同じく普通級に決まってるくない?と私は密かに思ってい

          普通級と支援級で悩んだ話

          バスにも乗れなかった話

          小学校生活最後の運動会を終えて、修学旅行の時期になった。 もちろん、自然学校動揺ママの同伴がないと参加は認められないというわけで。 行先は広島 広島まではバスで向かうことになっていた。 しかし、バスで向かうと高速道路を使うためにもしも何かあった時途中で降りられないこと、緊急時の対応に適していないことを理由にバスに乗っての参加もNGになった。 ショックはショックだった。 でももうこんなことくらいで落ち込む時期は過ぎ去っていた。 ママと私は2人で往復自費を出して新幹線で

          バスにも乗れなかった話

          運動会に参加した話

          いじめ問題が少しだけほんの少しだけ落ち着いた頃にはもう季節は既に秋口だった。 小学校生活最後の運動会 1年前と同様に組体操やリレーの競技練習が始まった。 毎日毎日律儀に体操服に着替えて、体育館やグラウンドの隅でじっとただみんなを見つめていた。 この頃にはもう、自分もやりたい!とかみんなだけずるい!とかどうして私だけ!!とかそんな感情はなくなっていた。 無の境地とはまさにあのことだと思う そんなことを思ったって、口に出したって、無駄だから。 ひたすらみんなが練習して

          運動会に参加した話

          いよいよいじめられたって話

          時は流れて、私はついに6年生になった。 小学校生活最後の年 担任は数年前から居たけど接点は一切なかったけどいつも笑顔でいるなと思ってた女の先生(以下、ニッコリ先生) 変わったのは担任だけじゃなかった。 私は心不全で失神したあの日からお気に入りだったワインレッドのランドセルを持たなくなった。 正しくは持てなくなった。 今みたいにランドセル自体の重量が軽くなくて、何も入ってない状態でもなかなかの重量で、主治医先生にドクターストップされていたから。 その間、私はランドセル

          いよいよいじめられたって話

          運動会で存在意義を見失った話

          みんなより少し短い自然学校は何事もなく無事に終わった。 自然学校の後に行われた運動会 うちの学校は毎年5.6年生合同で組体操をするのがテッパンだった。 もれなく私の年もやった。 もちろん私は不参加。 リレーと組体操だけはどう工夫しても参加できる部分が何もない。 組体操の数ヶ月にも及ぶ長い長い練習期間、私は体育館の隅で律儀に体操服に着替えて出来そうなひとり技をやってみたり、みんなの大技を遠目で見守ったりした。 体育館での練習を終えて、ラストスパートは実際に運動場での練

          運動会で存在意義を見失った話

          リーダーさんとの話

          バァバがくれたタクシー代で家から山奥の合宿所まで数時間で到着し、私とママはようやくみんなと合流した 私がみんなに合流する前に私、ママ、校長、キノコ先生の4人で少し打ち合わせをした とにかく、はしゃぎすぎて無理をしないこと 具合が悪くなったら直ぐに誰かに言うこと これだけは絶対に約束して欲しいと言われ、返事をしようやくやっとみんなと合流した 私が合流した時、みんなは自然学校の醍醐味と言えよう飯盒炊爨の真っ只中だった。 途中でやってきた私には役割なんてないことは分かってい

          リーダーさんとの話

          難病児ツイオフ最高ですって話

          今日はいつもの記事ではなくて Twitterの話 Twitterをやり始めたのは高校生頃の話 何年も使ってないアカウントをまた再始動させたのが数年前 きょうだい児 ってワードを知ったのもTwitter で、今年の2月に何かの流れで#難病児ツイオフってのを見つけて 医療的ケア児をお持ちの親御さんや私のような成人済難病児、元医療的ケア児、難病児、等 普段の生活では同じ境遇の人を見つけづらく、悩みや考えを共有する場が限られている人達がみんなで情報を共有してるのを見た 今の私

          難病児ツイオフ最高ですって話

          バァバがタクシーに乗らせてくれた話

          みんなが林間学校で楽しく過ごしてる間、私は自宅でまだ少し遅れをとっていた勉強に励んだ。 ジッとしているとみんなのことを考えてしまい、気がおかしくなりそうだったから忙しなく家の中を動き回ったりもした。 ようやく、私の出発する日が来た。 こうなると問題になるのが妹の世話を誰がするかだった。 この時まだ妹は年長さん 幼稚園の延長保育を最大限に利用してもタイムリミットは18:00 今でこそ、パパは年相応の役職についているけど当時はまだ下っ端。 18:00に幼稚園にお迎えに行こ

          バァバがタクシーに乗らせてくれた話

          自分のことを初めて憎いと思った日の話

          初めての抜去事件はあったものの、無事に4年生を終えていよいよ高学年と呼ばれる5年生になった。 5年生といえば一大イベントの林間学校 私はこのイベントを他の誰よりも心待ちにしていた だって、家でも学校でもほぼずっと一緒のママと離れて生活できるから。 ママが嫌いだったとかではなくて、自立に繋がるしとにかく楽しみにしていた。 そんな5年生の担任は、例年のごとく春休みに呼び出されてフライングで知るんだろうと思っていたがその年の春休みには呼ばれなかった。 初めてみんなと同じタ

          自分のことを初めて憎いと思った日の話

          地元の小児科医師に救われた話

          バビちゃんと遊んでいた日に初めて在宅静注療法のカテーテルが胸から抜去した。 即効、救急車に飛び乗って校長先生はいなかったけど学校のマニュアルを片手に市内の総合病院に搬送してもらった。 こないだのアラームトラブルの時もなんだかんだ受け入れてもらい対応してもらったから大丈夫だと私も母も思ってた。 だがしかし、搬送してもらったものの到着するとそこにはあの時の先生どころか小児科の先生がおらず成人科の医師しかいなかった。 投与が30分止まると危険 この言葉を合言葉に母は成人科の

          地元の小児科医師に救われた話

          きょうだい児である妹の前撮りをした話

          過去を振り返ってる途中ですが 2021年に新成人の仲間入りする妹の話 今日は妹の前撮り 特に何も感じず、家族写真を撮るために私も同行して母と2人で着物を着せてもらい、写真館で妹のヘアメイクと着付けが終わるのを待った。 姉である私の成人式と言えば、まだ在宅静注療法のために点滴を繋げていた。 周囲の友達が前撮りだのヘアスタイルだの目を輝かせながら話をしているのを横目に 振袖を着ることが出来ない という現実を突きつけられていた。 点滴のルートが垂れ下がっている以上、帯を締

          きょうだい児である妹の前撮りをした話