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「現実逃避」としてのサウナ、コーネリアス、アンビエント

昨年11月。AMBIENT KYOTOとコーネリアスのライブを観に京都へと赴き、その足で次の日から2日間長野のThe Saunaに行った怒涛の3連休、さすがに疲れるだろうと思い次の日に有給を取った。

実際は意外とピンピンしており外出する元気すらあった私は、コーネリアスの資料を探そうと意気揚々と国立国会図書館まで行くことにした。しかしもたもたしていたら日が傾いてしまい、家を出たのは夕方。国立国会図書館駅に着いたのは17時前だったと記憶している。
コーネリアスのライブを観たからか、AMBIENT KYOTOで霧だらけの空間にいたからか(展示には霧を大量に発生させた部屋の中で、コーネリアスの「霧中夢」を聴くというものがありました)、サウナに5時間入ったからかどうかはわからないが、一日中どこか現実味がなく、夢見心地だった。夕暮れの中で灯り出す永田町のオフィスビルがとてもきれいで、あまりそのあたりを普段歩かないこともあり、思わず見惚れてしまった。コーネリアスの「夢の中で」を聴きながらそれを眺めていたら、一人の人間が街を歩くMVとその前で演奏されるライブの風景が蘇ってきて、涙が滲んできたりもした。

コーネリアスの音楽やアンビエントミュージックは、どこか別時空で鳴っている音楽という感じがする。コーネリアスのアルバムがまさに『夢中夢』(夢の中の夢)だったが、現実と似ていて現実ではない、いわばパラレルワールドの風景を描いているような、そんな妙な感覚にとらわれる。極めて純度を高めた抽象的な景色、さまざまな喧騒から独立した別の世界へ、意識が持っていかれるような感覚。実はこれまでアンビエントをあまり聴いたことがなかったのだが、その独特な浮遊感に夢中になった。

ちょうど、それは交代浴をして、休憩しているときの感覚に似ている。最近よく銭湯で温冷交代浴(熱いお湯やサウナに入ってから水風呂に入る入浴法。最近流行っている「ととのう」手段として言われているものです)をすることが多いのだが、熱い風呂に入り、熱されること数分。のぼせる手前で水風呂に入る。水風呂に入っている時間が長いとかえって体調が悪くなることに気づいたので、さっと20〜30秒で上がる。
そうして水風呂から上がり、カランで椅子に座って休憩。この休憩する時間の景色が大事だということに最近は気がついた。鎌田の改正湯には浴槽付近の壁に魚(本物)が泳いでいるのだが、その魚を見ながらカランで休憩していたときに、海の底を泳いでいる魚たちを見ているような、不思議な錯覚に陥った。休憩中は別の世界と現実の境目があいまいになる。その感覚にも似ている。

こんなことを考えてしまうのは、少なからずコーネリアスがサウナ用のBGMを選曲していたことが大きく関わっているのだと思うが、音楽とサウナを濃密に浴びたあの11月の3日間から、音楽の聴き方が少しずつ変わっていったような気がする。

昔から散歩しながら音楽を聴くのが好きで、それは今でも変わらないが、これまでは目の前の景色とリンクする音楽を選んで聴いていた(現実との延長線上に音楽がある感じ)。
それが最近は、現実の中にある音楽を聴くのではなく、「音楽の中の現実」に吸い込まれていくような感覚で音楽を聴くことが増えたような気がする。

昨年初めて聴いた吉村弘やスティーブ・ライヒなどにも感じたのだが、聴いているとまさに音楽の中の世界に取り込まれる感覚に陥るものがあることをこの歳になってようやく知った。目を背けたいこと、考えたくもないことがたくさんある毎日、銭湯と音楽は、いつでも優しく私を現実逃避させてくれる。トリップというほど暴力的ではなく、もう少し穏やかな、38度くらいのぬるま湯に包まれていくような、そんな現実逃避である。

中高生のときには歌詞と自分の苦しみを重ね合わせて部屋で泣きながら歌っていることもあったが、そんなことももう今はなくなった。中身はまだ未熟にも関わらず、老いをひしひしと感じている。

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