ヒトラーに関する走り書き

ヒトラーについては何もしらない。
知らないのに、これほどまるでよく知っているかのように思っている人物も珍しい。
「まるでヒトラーだ」「ヒトラーと同じだ」と言われると、それはいけないなという気になる。
ぼくはドイツについて何も知らないのにドイツ的なものが苦手で、それでいてドイツ語の文法(統語論に限るが)は好きだ。そういうドイツ的なものの代表格にヒトラーが位置している。
それにしても、ヒトラーについては何も知らない。
けれども、ずっと気になって仕方がない。いつかはじっくりと向き合う必要があるような気がしてならなかったが、どういうわけでそんなふうに思うのかはわからなかった。
さっき、急にわかったような気がした。

「二・二六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、わたしは躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、前々から明らかにしてゐる
(中略)。

この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。現在只今の政治事象についてすら、孤立した判断を下し続けなければならぬ役割を負ふからである。」(『二・二六事件について』より)
三島由紀夫の言葉だ。

二・二六事件といえば、何はともあれ、否定しなければならない。
「あの事件をきっかけに日本はかねてよりの軍国主義国家としての助走から、一気に天皇制ファシズムへと突っ走り始めた。」というようなものから「気持ちはわかるが軍人が民間人を殺害するというやり方は絶対に許されないものである。」とかいうようなものまでが正解だろう。
「わたしは暴力には絶対に反対です、暴力を使って自分の意見を通そうとすることだけは絶対に許してはならないことです」という顔を保ちながら語らなければ大変なことになる。

「躊躇なく肯定」などと、良識人の前で真顔で言おうものなら、その後、口をきいてもらえなくなっても無理はない。
ぼくも、誰かにいきなり「肯定している」と言われたらびくりとする。
ぼくが暮らす堅気の人間の社会では、二・二六事件を肯定することは、「わたしは日本版ネオナチです、意見が合わない人は殴ります」と周りに宣言しているようなものだ。

三島由紀夫は、今風の逆張りで言っているのではない。
殺人や軍による政権奪取を肯定しているのではない。三島氏は、二・二六事件を起こした将校たちの敗北「無意味な」「愚かな」「無駄な」死を肯定しているのだ。
(今日、社会学者や文学者が三島由紀夫の死について論ずるとき、必ずつけられる「無意味な」「愚かな」「無駄な」という枕詞を、三島由紀夫の霊は微笑みながら聞いていそうだ)

「昭和史上最大の『精神と政治の衝突』事件であつたのである。そして、精神が敗れ、政治理念が勝つた。」

精神が政治に挑むと、必ず敗北する。敗北することでしか、精神の、政治に対する優位を示す方法は無い、そのことを劇的に示した、まさに悲劇だと三島氏は思っているのではないか。
歴史の「もし」について考えてみると、もし、あの事件が青年将校たちの勝利となって「天皇親政」と称する国家社会主義体制が北一輝とそれを取り巻く将軍たちによって樹立されたとしたら。
そうしたら、早晩、大臣たちを殺した青年将校たちは投獄され、やはり密かに処刑されただろう。

これよりさらに陰惨な「もし」もある。
青年将校たちが政治権力の中に入り込んだ場合。青年将校は生き延び、中年となり、老いてゆく。チェ・ゲバラが銃殺されず、毛沢東やプーチンのような権力の垢にまみれた年寄りになるといった図だ。

精神が政治の前に敗北することなく、政治と褥(しとね)を共にするようになれば、精神は政治の汚泥に触れてたちまち鼠色に変じ、しばらくすると、鼠色よりももっと見るに堪えない色となっていく。

(ぼくは、神谷宗幣氏がふたたび政治の世界に戻ると聞いてなんとなく喜べないものがあった。それは山本太郎氏の政治活動には感じないものだった。どうしてだかわからなかったのだが、今、その理由もわかった)

ヒトラーも、精神によって政治に挑んだのかもしれない。
そうすると待っているのは、どうしたって悲劇だ。
(しかもそれは政治への挑戦であるから、周囲の人や社会すら巻き込んだ悲劇となる)

ヒトラーの壮大な敗北は最初から予定されていた。ヒトラーに向けてあのまっすぐ腕を差し出す敬礼をするたびにヒトラーの精神とつながっていく。
ヒトラーに魅き寄せられた人々の命運も決まった。
(だからああいう精神を体現する人物を中心にして一斉に腕をあげるようなことはしないほうがいい。例えば参政党のように。なぜなら、そのたびに人々は或る悲劇的な精神とつながっていくからだ)

現代のヒューマニズムや自由民主主義を至高の価値とするものの見方では、二・二六事件が示した精神と政治の関係は視えて来ない。
ヒトラーに対する現代人のアプリオリとでも言いたくなるような否定は、ヒューマニズムや自由民主主義を至高の価値とする現体制によって覆い隠された人間に関する真実と関連しているに違いない。
たぶん、不都合な真実と。

ヒトラーに対するわたしたちの誰もが感じる胸騒ぎは、嫌悪にも恐怖にもしてしまうことができない。何かそういうもの以外で動悸がしているのだ。
もし、それを互いに納得できる何かとして片づけられるものならば、今もなお映画や小説や評伝の対象や主題として気にかけられ、なんとか解釈してわかってしまおうと芸術家や研究者がやっきになることはなくなっているはずだ。

ヒトラーの再来などといった言葉が示しているように、まだ、ヒトラーは現役なのだ。珍しいけれど、今は決して使うことのない先史時代の土器として掘り出されて、考古学の資料、あるいは美術品として眺められているのではない。
何か、まだ、わたしたち二十一世紀に生きる人間と血肉のつながりがある。

人間が巧妙に避けて、そんな問いは人間にとって存在しないことにしている―ぜひともそういうことにしたい―問いを、ヒトラーは、あの独特の身振りで、今もなお、問いかけ続けているのだ。
だから、あの顔を―特にあの暗い眼を、一度でも見た人は、忘れられなくなるのである。

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