ムーンショット計画と存在の耐へられない軽さ
↓の記事にいただいたコメントで、ハレとケについて書いたことを再掲します。
コメントをいただいたのは、不可逆さんといふ方です。
なんで近代小説(今となっては、明治から昭和三分の二くらゐまでに栄えた『古典的小説』となってゐますが)が不可能になったのかといふ話で。
わたしの意見は、近代化によってまた裂き状態になってゐた日本が、敗戦によって千切れちゃったといふものでした。
もうジタバタしなくなった。
コメントを頂いて思ひついたのは、日本が近代化をどう受け入れるかといふ問題以外に、近代化されること自体に、「あれかこれか」と悩んで小説を書くネタが無くなってゐるのではないかといふこと。
それは、生活が都市化されたせいだと思ひます。
都市化された暮らしには、ハレとケが無い。
ハレとケの境目が失はれたのは、資本主義によって衣食住が豊かになったからかなとわたしは思ってゐます。
半世紀以上前、わたしがかろうじて覚えてゐる幼いころには、正月には男女とも「晴れ着」を着てゐました。一年で一度だけ食べられる御馳走が存在しました。
そのころのわたしの感覚を呼び起こすと、今のわたしたちは、「毎日がお正月」。
これは「毎日が日曜日」と同じやうに、わたしたちホモサピエンスの生の実感を蝕んでゐるのだらうと思ひます。
存在の耐へがたい軽さのために、わたしたちは、最後の生の実感である・SNSにしがみついてゐます。そこにこそ、わたしたちの存在をvalidateしてくれる他者がゐるやうに思へてしまふからです。
都市の暮らしから「生きてゐるといふ実感」を得るには、ホモサピエンスから電脳人間へと内発的に進化しないと無理だらうと思ひます。
ムーンショット計画なんて、ホモサピエンスとしてのヒトの終はりを自ら宣言してゐるやうな政策ですね。
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