わたしのトンデモ進化論

 生きづらい、といふことは、今の暮らしは手放したくないけど、もっとよくなってほしいといふこと。
 生きるのがツライのと似て非なるもの。

 生きることがツライとなると、ぬるま湯だったお風呂のお湯が熱湯になったやうなもので、とにかく、飛び出す。飛び出さないではゐられない。考へる余裕は無い。

 そして、引っ越す(生活の仕方を変へるって意味ね)とか、自分のパーソナリティを本格的に変へるとかいったことに取り組むだらう。
 さういふ、今の自分から飛び出すといふ選択肢しか無いからだ。

 ツラいけど、まあ、今の場所でなんとか生きていける、生活を変へない、今とは違ふペルソナをつけようとまではしない・・・としたら、生きるのがツラいといふことからは微妙にズレてゐて、
生きづらいのだと思ふ。

 これはこれでツライですけどね。でも、やっぱり地毛とづらの差はある。

 自分を本格的に変へようと思ったら、それまで通ってゐた精神科とかはやめると思ふ。
 発達障害とか自閉症とか言はれても、なんの役にも立たない(なんとかの突っ張りにもならない、って表現がぴったりなんですが、排泄系の言葉が苦手なので書ききれない)。

 もう、今の自分ではだめだ、やってられない。
 さう心底感じて追ひ詰められたら、心理カウンセラーにお金を貢いでも、それは、今の自分をそのままにすることにしか役に立たないことがわかる。

 生きづらいといふのは、大東亜戦争の前の日本社会では、かなりの富裕層の子女にしか感じられないことだった。
 一般の人たちは、明日のご飯を確保するために今日の仕事で忙しい。その仕事の合間に、今日のご飯をかきこむことで精いっぱい。
 気がついたら寝る時間。
 目が覚めたら仕事に行く時間。

 さうしてゐるうちに、病気になったり歳をとったりして、死んだ。

 生きづらいとかつらくないとか、幸せだとか嬉しいとか、悲しいとか寂しいとか、セックスがしたいとかしたくないとか、さういふことはみんな、時間があってものごとを立ち止まって考へた人の感じることだ。

 わたしたちは、だから、たいていの人が、程度の差はあれ、生きづらさを感じてゐる。

 どれくらゐ生きづらいか、それを互ひに、競ふこともあるやうだ。

 生きづらさの問題は、
①明日のご飯のために費やす時間が、
②一日の生きてゐる時間から次第次第に減っていって、
③臨界点に達してしまふと、
どんな人にも、ふりかかる問題だ。

 そのとき、誰もが、
食べるために生きるといふ奴隷から、
生きるために食べるといふ自由人になる。

 そして、自由になった人は、他の「みんな」から切り離された個人でもある。
 自由な個人

 自由な個人として、
 自由な時間を、
 いかに生きるか。

 これは、とんでもない難問だ。

 人間つまりヒト科のヒトのスペックには、そんな問題を解くためのgadgetは書き込まれてゐないと思ふ。

 いや、或いは、もしかしたら、神様のやうな存在がゐるのかもしれない。    
 神々がゐるとしたら、チンパンジーのDNAに妙な細工をして、脳をこれほどまでに肥大させ、ヒトが余暇を生み出すやうに仕向けて、ヒトに自分の存在と人生といふものの意味を考へさせようとしたのかもしれない。

 ヒトなるものは、自由人として生きられるのか、いなか?

 人生はただの暇つぶしと切り捨てたヒトが出るたびに、おそらく神さまの一人が指差して、
 「ほら、きっと言ふっていったらう。ああして問題から逃げるに決まってる」
と笑ってゐると思ふ。
 「それを見るのも一興ぢゃない?」
 別の神様は、人生の意味に取り組んでうんうんうなってゐるヒトが推しらしい。

 下界のヒトたちが、
飲食、酒、セックス、娯楽、政治、お金、ゲーム、宗教、・・・∞。
ありとあらゆる無意味を、生きる意味の代替物にしようとして奮闘するさまが、神様たちには、面白いのかもしれない。

 残酷なのかひょうきんなのかよくわからん神様たち(なにせ八百万の神といふわけでいろんな性格の神がゐる)が、今日も、わくわくどきどきしながら、わたしたちを観察してゐる。・・・のかもしれない。

 わたしのトンデモ論でした。

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