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自己中人間の作り方

それはそれは熱い志と正義に包まれた思いやりを、100%間違いないと信じて、電話してこられる方がいる。

こちらは仕事だから、仕方なく受け答えする。断ることも、意見することも許されない、聞き手だから。

目の前の相手に対する思いやりひとつ無いのに、国民に不誠実だと政府を批判する。聞き手の都合などお構いなしに、一方的に話し続け、時間を奪って行く。

話を聞けば聞くほど、周りに聞いてくれる人はいないだろうと感じ、次第に確信へと変わる。本人は、矛盾に満ちた不可解さには気づきもせず、心地好さ気に話し続ける。

有りがたいだろうという押し付けが、否応がなく襲い掛かってくる。

話し手の提案に付き合って貢献しようという気持ちに辿り着く前に、話し手の哀れさを弔うように、聞き手に徹していると、自分自身の偽善に満ちた対応に嫌悪し始めてしまう。

きっとこの話を、その話し手が読んでも、自分のことだとは思わないだろう。

電話を終わることが出来たとき、やるせない疲弊感と共に、話し手が育て上げられた環境に思いが及ぶ。どういう境遇を過ごせば、こんなふうになるのだろう。

全くの自己中からくる熱い正義感。
崩壊した論理性の上に聳える完全なる妄想。

幼い頃に誉められた経験が少ないことや、反対に叱りつけられてきたことによる、自己肯定感の不足が、こういう性格を作り上げるのかな?

正しいことを言っていれば、文句は言われなくて済むぞってことなのかな?

他人を見て、自分に置き換えることが出来ないのは、何故だ?
自分だけは違うって、思い続けるのは何故だ?

そうか、自己をハッキリと確立できなければ、その自己を客観視することもできないってことなんだろう。

だからこそ、子どもたちには、無条件の愛情を注ぎたい。

いい子だったら、お利口さんにしていたら、なんて条件は、大人が辛抱出来ないから、付随させてしまうんだ。

もっと堂々と、正しく向き合う強さをもって、子どもたちに笑顔を見せたいものだと、改めて思う。怒鳴っても、何もよくはならない。叱りつけるのではなく、考えるゆとりを与え、誉めるチャスを見つける。

小さな自信を、少しずつ与え続けることで、子どもたちの自己が確立され、新しい自我が目覚める。

そのときに、刺々しい自我ではなく、優しさを持った自我になるように、育てるのが大人の役目だと思う。

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