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故郷の蛙たち

家からバス停まで、ものの3分もかからない。でも、この雨だと傘がなければずぶ濡れになる。

7時35分のバスに乗るからな、8時頃にバス停まで迎えに来てくれよ。

父ちゃんから電話があった。

えーって思ったけれど、口には出さなかった。見たいテレビ番組を最後まで見られないかも知れないと思った。

そこを見逃せば、再放送までそのシーンを目にすることは出来ない。

40年以上前、ビデオデッキもなかった頃だ。

でも、嫌だと言うつもりはなかった。

走れば直ぐのバス停も、土砂降りだと走れない。自分がずぶ濡れになる。ギリギリまで見ておいて、後は明日学校で、健太郎から聞こう。

最後のとこ、見れなかったんだよ、どうなった?って聞くと、夢中になって教えてくれるに違いない。あいつはきっと万全の準備をして、テレビに向き合っているはずだと思った。

ボクはそれよりも、父ちゃんの大きい手で頭を撫でられる方が好きだ。少し汗くさい匂いをさせながら帰ってくる父ちゃんは、いつも笑っていた。

ボクがお帰りって言うと、おお、ありがとさん!ただいま~って、いつも言うんだ。

ボクは、学校であったことを、家に帰りつくまでの間に話せるように、早口で話す。父ちゃんは、へえ、ほう、ふーんと言いながら聞いてくれる。最後に、やったなあ!とか、すごいなあって言ってくれるそれだけで、ボクは嬉しくなる。

今日は、昼休みにドッチボールをしてボクが最後まで生き残ったことを話そうと思った。

でも、父ちゃんはあんまりボクの友達の名前を知らない。健太郎の話をした後に、貫太郎の話をしたら、あれ?さっきその子はボールを当てられただろう?と聞き返された。それは健太郎だよって言うと、今のは?って(笑)。

それで途中からは、ドッチボールの話じゃなくて、友達の説明になった。

今頃、みんな家でくしゃみしてるかなと思った。

その途端に、父ちゃんが大きなくしゃみをした。

ハーックション!

ん?周りの音が全て一瞬消えた。そして直ぐに音が戻ってきた。

蛙の鳴き声が止んだのだった。

歩いていた道の横にある田んぼで鳴いていた蛙が、父ちゃんのくしゃみに反応して、ピタッとなき止んだことに、ボクは驚いた。

父ちゃん、蛙が黙ったぞ!と、ボクが言うと、父ちゃんも驚いた顔して、うんうんと、頷いた。

もう一回、でっかいくしゃみしてよ!と頼んだけど、もう出ないなあと笑われた。

後にも先にも、あんなに大きな蛙の合唱を、一瞬とは言え、ぴたっと止めたのは、あの父ちゃんのくしゃみだけだったと思う。

テレビを最後まで見ているより、ずっとすごいものを見たと思った。

ボクは翌日、健太郎にその話をした。健太郎も面白がって、学校からの帰りにボクと一緒に田んぼへ向かったが、夜ほどないていなかったので、つまんねえなって、話して諦めた。

仕事帰りの夜道を歩いていて、蛙の声を耳にし始めると、あの夜の親父のくしゃみを思い出す。

大人になった今も、親父のような大きなくしゃみは出来ない。俺もまだまだだなって、思ってしまう。

今も親父はあんな大きなくしゃみをするんだろうか?80に近くなった親父には、もう無理かなと思う。でも、また聞いてみたいなと思った。元気で大きなくしゃみ(笑)。

もうすぐ父の日か。何を持っていこうかな。今年はマスクしていって、すぐに帰らなきゃ行けないけれど。

もう親父の孫も、あの頃のボクより大きい。

あのときの話を、親父は覚えているだろうか。
梅雨のじめじめとした夜の話。

父ちゃんと歩いたあの故郷の道は、どうなっているだろう。引っ越してしまったから、よくわからない。

今もあの蛙のなき声を聞けるのだろうか。

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