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淡路島の社を巡りて~第伍社目 大歳神社(旧津名町生穂下高寺)

【由緒略記】

詳細不明(調査中)。石鳥居には『享保(判読し難いが、乙卯ならば二十年(1735))五月吉辰日(めでたい日) 』とある。石段には『明治廿九年五月』とある。明治○九の判読が難しいが、廿九(29)に見えるがいかがだろうか。

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鈴緒の眼上には昭和59年1月 修復改修費の寄進者芳名書きがあり、
「金比羅神社」「大歳神社」「社日塔」と書かれている。

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この「金比羅神社」は、かつて賀茂神社(四社明神)の末社であった。
賀茂神社の寄進池の森に金比羅神社があるが、大歳社と同時に修復改修したのだろうか?それとも大歳社に合祀された後に再度建て直したのかは分からない。
現在の金比羅神社は、この大歳社よりもかなり新しいように感じられた。
「社日塔」は寄進者の多くが中ノ内なので、雨乞の社日塔だと思われる。
今回「社日塔」については省略する。

『津名町史』には、

金比羅神社の彫刻は、生穂に住んでいた飾磨の彫師 二代目黒田正勝の作(明治十七年)であった。

と記されているが、現在のところ他に「金比羅神社」の痕跡は確認できない。また現在の金比羅神社の彫刻は黒田の作ではない。

明治の頃、大工であった曽祖父は「2つの古い寺院を合わせて1つにした」と話していたという。これは西明寺(最明寺)と栄玄寺の話だろうか?
このようにいくつかの古い建物から使える部材で改築・移築するということが行われており「大歳神社」と「金比羅神社」もそのように合祀された可能性もある。

石段の刻印が「明治十(拾)九年」ならば二代黒田正勝作の「明治十七年」とも合致するが、上記のようにそれが現在地にそのままあるのか、何処かから持って来たものなのかは現在の情報だけでは判断できない。


【彫刻・意匠】


トタン葺のお堂の中に小さな本殿が納められている。

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象鼻、唐獅子牡丹の狭間、唐破風屋根で懸魚は鶴、虹梁・蟇股は波。
建物の中は薄暗くて撮影しにくいが、鬼の中心には星梅鉢のような紋が見える。星梅鉢なら天満宮・天神様ということになるが、これもよく分からない。
獅子、象ともに眼の凹みから、当時はガラス目が入っていたように思う。
かなり古びてはいるが、アップにすると丁寧に彫られているのが分かる。

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もしこれが「金比羅神社」のものであれば、二代目黒田正勝の作ということになるのだろうが、「星梅鉢」が引っ掛かる。
「金比羅」なら「丸に金字紋」か「八雲紋」のはずである。
二代目黒田正勝の作は生穂では濱組のだんじり狭間しか確認されていない。もう少し作品が残っていても良さそうなのだが…。

狛犬も古い物のように感じたが、台座が変わっているからか奉献年月は刻印されていない。小さいが精密に掘られており、とても可愛らしく好みである。狛犬ファンにはオススメ。

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鹿なら春日社?

生穂では、厄年の者は旧暦の年越し(節分)に、誰とも話さず神社を詣でて廻り、街道の十字路で後向きに草履を捨てて帰る。といった習わしがある。
詣でる神社は、一般的に賀茂神社・大歳神社・八幡神社である。
草履を捨てる十字路は、かつての雨乞山登山路口である札場の地蔵の十字路だと思われる。
小生は父からこの話を聞き、また父の厄年時にも着いて行った覚えがある。最近になって改めて書籍で確認した習わしであるが、現在では知る者も行う者も皆無である。小生が厄年で行った際も誰とも会うことがなかった。

このような習わしを地元の者に伝えていくことも大切なことだろう。
伝えていれば、もしかすると小生のように行う者が現れるかも知れない。

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