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"悲しい"の敵は"暇である"こと〜死と仏教哲学〜

実は、先日、幼い頃から可愛がってくれた叔母がガンでなくなり、自分自身、久々に『死』について向き合っている。だから、あえて、というわけではないが、今の気持ちを書き留めるようにして、記録してみようと思う。気分が悪くなりそうな人はこの辺りで読み進めないことをお勧めする。

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僕の先祖は、代々、仏教の曹洞宗という宗派の僧侶だ。祖父も、父も、お坊さんである。一応、僕で十三代目ってことになっているらしい。僕も例に漏れず、社会に出る前に、半年間、山寺に籠って修行をした。僕も今でもたまぁ〜に寺の仕事を手伝ったりしているので、複業として曲がりなりにも僧侶ということになる。複業僧侶。パワーワード。(笑)

"自分自身の死"というよりも"親しい人の死"が怖い

そんな家柄なので、小さい頃から死後の世界について、考えたり、学んだり、向き合ったりする機会が多かった。特に"自分自身の死"というよりも"親しい人の死"について悲しんでいる人、いわゆる檀家さんと向き合うことが多い。

"親しい人の死"への受け入れ方は十人十色。忘れられずに立ち直れない人、親しい人の死を悲しめず自分のことを責める人、親しい人が死んでからじわじわ遅れて悲しさが襲ってくる人、自然現象として受け入れられるような人などなど、多様性に満ちている。

"悲しい"の敵は"暇である"こと

ずーっと連れ添った人がパタっといなくなる辛さは想像を絶するが、どんな状況においても「悲しい」の敵は「暇である」ことだと思っている。暇だとくよくよと、今考えてもどうしようもないことを、人は考えたくなるんだと思う。なので、悲しみくれている人がいたら、どうか仕事や用事を増やしまくってあげて忙しくして考えなくて済むのようにしてあげてほしい。

人は2回死ぬ。肉体の死、そして魂の死。

人はいつ死ぬのか。もちろん心臓が止まった時だ。その後、お通夜や葬儀をし、日本の場合はほとんどが火葬。その後、火葬後にお骨を箸で拾い、骨壺に納める 骨上げをする。この一連に立ち会うと、あぁ本当になくなったんだな、と体感する。死後においても「死んでいるのに死んでいないような気がする」ということを思う人がいる。そういうことがないように、しっかり見送るのだ。

それに加えて、仏教ではもう一回その後に「死」という定義をつくった。それは、魂の死、ということになっている。肉体が死んだ後に、魂が死ぬのだ。

49日(しじゅうくにち)というのを聞いたことがあるだろう。魂が死ぬタイミングが、肉体の死の、49日後という設定になっている。

亡くなってから49日目までは、魂がたどり着く先が決まっていない。魂が極楽浄土(苦しみがなく、楽しみだけがあるという世界)へいけるかどうかは、この49日間で決まる。49日までに、7日ごとに7回審判を受ける機会がある。ちなみに、審判では生前の罪が裁かれ、罪が重いほど苦しみの深い世界に行くとされている。

<49日目までの審判内容について>
7日目:無益な殺傷に関する審判
14日目:盗みに関する審判
21日目:不貞に関する審判
28日目:嘘に関する審判
35日目:閻魔大王によって、どの六道になるか決まる
42日目:六道の中で、どの場所に生まれるか詳細が決まる
49日目:生まれ変わる姿や行き先の判定がくだされる

49日目で法要などをするのは「故人が極楽浄土へ行けますように」と願い、応援する意味があるため、とされている。

49日の間でじわじわお別れをしていく

なぜ、この49日を仏教は作ったのか。親しい人が急に死ぬと、その死を受け入れられないパターンがある。死んだ後なのに、あれ?なんでいないんだっけ?などと思ってしまう人がいるのだ。親しい人の死を、受け入れるのは、時間がかかる場合がある。49日かけて、さまざまな儀式を経て、よし、これで魂が極楽浄土へ行ったね、よかった!!ということで、死を受け入れるということを実施する。これ、本当によくできているフォーマットだなぁと痛感する。

その後も、初盆があったり、春や秋のお彼岸があったり、最大100回忌までするというのが正式なルールになっている。100回忌、、もはや、その人を知る人はいない可能性もある(笑)

そのようにして、故人と向き合うのだ。

なぜ墓参りが必要か

ぜひ、大切な人がいたら、騙されたと思って、ご家族の墓参りにぜひ一度行ってみてほしい。パートナーのご家族の墓参り、部下や上司のご家族の墓参り(現代ではやりすぎかと思われるかも)など。

先祖に手を合わせると、「この人は先祖にまで手を合わせてくれるのか…。。感謝してくれるのか…。。」という絆が生まれることがある。

増える墓じまい、いかにして墓はアップデートされるのか

叔母の死と向き合っている最中ではあるが、核家族化などを背景に、代々受け継いできたお墓を整理する「墓じまい」が増えている。叔母も子なしの夫婦だった。

近年、墓参りをする若者なんて珍しいのではないだろうか。僕も32歳だけど、なかなか周りで「墓参りってきた」「墓参りなう」みたいな話は聞かない。「親しい人の死」に対する死生観も変わってきている中で、僕ら現代人は、どのようにして「親しい人の死」に向き合っていくべきなんだろうか。叔母の死へ向き合いながら、考えて行動してみたい。

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先日、叔母の葬儀をとりおこなった。親族だけの家族葬。15名程度集まり、静かにさよならをした。ほぼ全員が声を出して泣いていた。そろそろ初七日が来る。肉体の死、魂の死、という概念をつくった仏教の制度に、心が救われている感じがする。まだもう少し、49日までお目溢しがある。ありがたい。魂なるものにさよならを告げる準備もしながら、もっともっと忙しくしたいな。

day12

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